第21回 郡学改革
太学改革の一環として、張裔と譙周が地方巡察から持ち帰った郡学制度の改革に取り組むことになった。
私塾は郡学に優秀な学生を推薦し、郡学は更に優秀な学生を太学に推薦する仕組みづくりである。
懸念されることは、その「推薦権」を悪用して、賄賂などが横行する可能性があることであった。
実際、太学で学ぶ者は全て国が面倒をみており、その親は特に持ち出しの金などは必要なかった。次に親の費用負担が軽いのが郡学であり、一番費用がかさむのは私塾である。
多少の賄賂を払ったとしても、我が子を一つでも上の学校に進ませ、かつ、費用の負担を軽くするために、その推薦の権利を有している師に賄賂を渡して話が付くなら、と考える者が出てくるのは容易に想像できる。
この抑止力として考えたのが、試験の実施であった。
推薦だけで入学は出来ず、推薦を受けた者は試験を受けて合格した者のみに入学をさせるという仕組みである。
そうすると、ひとまず推薦だけはするということにもなりかねないので、推薦した生徒が落ちた場合、その私塾、郡学の翌年の推薦枠を減少、消滅させればよい、ということになった。
そうすれば、推薦の乱発も防げるであろうし、教育の水準も高められる期待が持てた。
さらに、試験問題は成都で統一して作成したもので、試験の期日も同一にすれば公平性が保てるとし、まずは年一回と考えた。
ここまでの考えを学問官僚の四人は短期間で考えた。
そして、すぐに諸葛亮への上奏の準備に入った。
間もなく、第二次北伐が行われるという雰囲気が、成都に漂い始めたからである。
そして数日で準備を終え、杜瓊は郡学改革を上奏し、諸葛亮の承認を得た。
杜瓊たちは、各郡学に、今後の郡学改革の骨子を伝える文書を作成し、送達した。郡学の方では、郡にある私塾に対し、今後優秀な学生がいる場合、郡学に推薦するように要請をしたのである。
これから色々な問題が各所で起こるであろうが、まずは始めることを優先して動き出したのである。




