婚約者が決まりました。
私が前世の記憶を思い出してから三年が経った。
現在八歳。
五歳の頃に比べれば少し背も伸びたし、王女としての勉強も増えた。
礼儀作法。
歴史。
外交。
ダンス。
王族というものは案外忙しい。
もっとも。
木登りをして怒られる回数はあまり減っていない。
「減らせ」
とフォレストにはよく言われる。
失礼な話である。
ちなみに本人は否定するが、最近は私が何かやらかす前に察知できるようになってきた。
成長したというべきか。
苦労人になったというべきか。
おそらく後者だろう。
そんなある日のことだった。
「エレノーラ様、陛下がお呼びです」
昼食後、自室で本を読んでいた私は顔を上げた。
窓から差し込む春の日差しが暖かい。
平和な午後だった。
侍女の表情はいつも通り。
しかし嫌な予感がした。
とても。
「お父様が?」
「はい」
「怒っていたかしら」
「いいえ」
「笑っていた?」
「はい」
嫌な予感がさらに増した。
私は静かに本を閉じる。
経験上、お父様が笑顔の時ほどろくなことがない。
「フォレストは?」
「すでに謁見室へ向かわれております」
ああ。
これは確定だ。
ろくでもない話である。
私は小さくため息を吐いた。
⸻
「失礼いたします」
謁見室へ足を踏み入れた私は、一瞬だけ足を止めた。
高い天井。
赤い絨毯。
王家の紋章が刻まれた大きな窓。
普段なら見慣れた光景だった。
けれど今日は違う。
お父様。
お母様。
お兄様。
そしてフォレスト。
全員揃っている。
これは逃げられない。
絶対に逃げられないやつだ。
「おいで、エレノーラ」
お父様が穏やかに手招きをする。
優しい。
優しすぎる。
怪しい。
私は警戒しながら近付いた。
「何かございましたか?」
王女らしく尋ねる。
するとお父様は満足そうに頷いた。
「うむ。実は大事な話がある」
やっぱり。
「エレノーラ」
「はい」
お父様の表情が少しだけ真面目になる。
私は背筋を伸ばした。
「婚約者が決まった」
私は瞬きをした。
一回。
二回。
三回。
「はい?」
思わず聞き返してしまった。
隣を見る。
フォレストも固まっている。
どうやら彼も初耳らしい。
「婚約者だ」
「聞こえております」
「そうか」
聞こえているから困っているのだ。
私はまだ八歳である。
少し早くないだろうか。
ゲームの中でもこんなに早かったのだろうか。
「相手はカナルド帝国第一王子、アルベール・ヴァン・カナルド殿下だ」
お父様はゆっくりと言葉を続ける。
「大陸で一、二を争う我が国とカナルド帝国。その発展と同盟の絆を深めるための婚約になる」
その名前を聞いた瞬間。
私とフォレストは同時に固まった。
アルベール・ヴァン・カナルド。
ゲーム『聖女アリアの奇跡』の攻略対象。
そして原作での私の婚約者。
「……」
「……」
無言になる私たちを見て、お父様が不思議そうな顔をした。
「どうした?」
「いえ」
私は慌てて笑顔を作る。
「少し驚いただけです」
それは本当だった。
まさかこんなに早く原作の登場人物が出てくるとは思わなかった。
「そうか」
お父様は頷く。
「四年前から話は上がっていたのだが、お前がまだ小さかったからな」
四年前。
つまり私が四歳の頃である。
早すぎないだろうか。
「私も何度か会ったことがあるが、『麗しの貴公子』の名の通り好青年には違いない」
お父様は安心させるように微笑んだ。
どうしよう。
お父様が攻略されているわ。
思わず遠い目になりそうだった、その時。
お父様の声が少し柔らかくなる。
「もちろん、お前が嫌なら断ることもできる」
私は思わず顔を上げた。
「え?」
耳を疑った。
政略結婚だ。
王族だ。
断れるはずがないと思っていた。
隣を見る。
フォレストも同じ顔をしていた。
どうやら聞き間違いではないらしい。
「国同士の約束ではある」
お父様は静かに言う。
「だが、お前の人生だ」
謁見室が静まり返った。
「無理にとは言わん」
「あなた」
お母様が苦笑する。
「本心だ」
お父様は真顔で頷いた。
すると今度はお兄様が口を開いた。
「嫌なら俺が断る」
「お兄様」
「遠慮するな」
「いや、そういう問題では……」
私は額を押さえた。
過保護である。
非常に。
ゲームで私を蔑ろにしていたらしい原作のお父様と同一人物とは思えない。
フォレストも同じことを考えたらしく、何とも言えない顔をしていた。
「エレノーラ」
お父様が優しく問いかける。
「どうしたい?」
私は少し考えた。
もし私がアルベール殿下と婚約しなかったら、
原作はどうなるのだろう。
アリアは聖女になるのだろうか。ゲームを知らない私には分からない。
けれど、私は王女だ。
この国の第一王女。
国のためにできることがあるなら、やるべきだと思う。
「受けます」
お父様が僅かに目を細めた。
一旦受けてもゲームでは婚約破棄されていたのだ。まぁ断罪による婚約破棄だけれど、破棄が必ずできないわけではないし、アリアが聖女になったらその時考えればいい。
少なくとも今は。
「良いのか?」
「私は王女です」
私は真っ直ぐ顔を上げる。
「国のためになるのであれば受けるべきだと思います」
しばらく沈黙が落ちた。
なぜか家族全員が複雑そうな顔をしている。
「……立派になったな」
お父様がぽつりと呟いた。
「お父様?」
「いや」
その表情はどこか寂しそうだった。
⸻
謁見を終えた私はフォレストと並んで廊下を歩いていた。
夕方の日差しが長い影を落としている。
「婚約者かぁ」
「そうだな」
「原作通りね」
「ああ」
少しだけ沈黙が流れる。
やがてフォレストが思い出したように言った。
「そういえば原作のお前」
「何?」
「アルベールに一目惚れしてたな」
私は即座に顔をしかめた。
「だから何度も言うけれど絶対ないわ」
「まだ会ってもないだろ」
「会う前から嫌な予感しかしないもの」
「ひどいな」
私は肩を竦める。
「というか、この世界すごいわよね」
「何がだ?」
「『麗しの貴公子』だの『聖女アリアの奇跡』だの」
私は指を折りながら数えた。
「ネーミングセンスがすごいわ」
「それは否定できない」
フォレストも真顔で頷いた。
「姉ちゃんも昔、タイトルだけで買ったって言ってたし」
「でしょう?」
私は満足げに頷く。
そして少し首を傾げた。
「そうなると気になるわね」
「何が?」
「私は何て呼ばれるのかしら」
フォレストが露骨に目を逸らした。
嫌な予感がする。
非常に嫌な予感がする。
「何か知ってるわね」
「知らん」
「嘘ね」
「知らん」
「知ってるわね」
「知らん」
私はじっと見つめる。
フォレストは根負けしたように顔を覆った。
そして。
「……翡翠の魔女」
沈黙。
「……」
「……」
「聞かなかったことにしましょう」
私は静かにそう告げた。
今日もティアーナ王国は平和だった。
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