幕間 アッシュ・ローズベル
静かだった。
研究室には紙をめくる音だけが響いている。
いつも通りだ。
本を読み、術式を書き、魔道具を作る。
それがアッシュの日常だった。
なのに最近は少しだけ違った。
「……うるさい」
ぽつりと呟く。
誰もいない研究室に返事はない。
当たり前だ。
ようやく静かになったのだから。
今日も。
昨日も。
あの少女はやって来た。
勝手に研究室へ入り、勝手に魔道具を触り
勝手に話しかけ、勝手に笑う。
帰れと言っても帰らない。
意味が分からない。
本当に意味が分からない。
アッシュはため息を吐いた。
そして視線を机の上へ向ける。
そこには翻訳魔道具の設計図が置かれていた。
『自動翻訳魔道具』
あの少女が言った言葉を思い出す。
面白い発想だった。
少なくとも今まで誰も言わなかった。
「……変なやつだ」
そう呟きながらペンを走らせる。
自然と手は動いていた。
術式を書き換える。
改良案を追加する。
気付けば研究に没頭していた。
昔からそうだった。
考えている時だけは余計なことを忘れられる。
⸻
アッシュが生まれた時、村中が騒ぎになった。
異常な魔力量だったからだ。
生まれたばかりの赤子が放った魔力で、部屋中の魔道具が暴走した。
魔力測定士は震えながら言った。
「こんな数値は見たことがありません」
両親は喜ばなかった。
恐れた。そして、捨てた。
⸻
普通の人間は自身が産まれた頃の記憶はないというが
なぜかアッシュは覚えていた。
泣いていた母親の顔を。
怯えていた父親の顔を。
幼かったから理由は分からなかった。
ただ一つだけ覚えている。
誰も自分を抱きしめてくれなかったこと。
⸻
そんなアッシュを拾ったのは祖父だった。
母方の祖父。
魔導士でもなく、貴族でもなく、ただの村人。
けれど誰より優しかった。
「アッシュ」
祖父はいつも笑っていた。
「お前は人だ」
村人たちが恐れても、親が捨てても、
祖父だけは変わらなかった。
「魔力量なんか関係ない」
「お前はお前だ」
幼いアッシュにはよく分からなかった。
けれど、その言葉だけはずっと覚えている。
⸻
村人たちは避けた。
近寄らなかった。
同年代の子供たちも遊んでくれなかった。
だから本を読んだ。
魔法を学んだ。
研究した。
魔法は面白かった。
術式は嘘をつかない。
理論は裏切らない。
努力した分だけ結果が出る。
人間よりずっと分かりやすかった。
⸻
十五歳になった頃、祖父が倒れた。
病だった。
治らない病。
その頃にはアッシュにも分かっていた。
もう長くないことを。
「王都へ行きなさい」
ある日、祖父はそう言った。
「嫌だ」
即答だった。
王都なんて興味はない。
ここで研究できれば十分だった。
「お前はもっと自由でいい」
祖父は笑った。
弱々しく。
それでも優しく。
「こんな小さな村で終わるな」
アッシュは何も言えなかった。
⸻
数週間後。
王都から使者が来た。
祖父が送っていた手紙。
そこに記されていた研究内容。
それを見た魔法塔が迎えを寄越したのだ。
アッシュは王都へ来た。
魔法塔へ入った。そこで初めて知った。
自分より魔法を愛する人間が大勢いることを。
研究を馬鹿にしない人間がいることを。
ここなら生きやすい。
そう思った。
⸻
そして、祖父は死んだ。
王都へ来て半年後のことだった。
⸻
「……」
アッシュはペンを止めた。
思い出したくもない記憶だった。
だから研究をする。考える。
忘れる。
そうして静かに生きてきた。
現在の魔法騎士団長ベルズ・ローズベルの
養子アッシュ・ローズベルになった後も同じなはずだった。
⸻
コンコン。
扉が鳴った。
アッシュは顔を上げない。
誰か分かっている。
足音で分かる。
扉の前で少しだけ待つ癖も。
ノックの強さも。
全部。
アッシュは深いため息を吐いた。
静かな研究室は終わりだ。
だが不思議と嫌ではなかった。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ。
「……帰れ」
「何で分かるのよ!?」
扉の向こうから聞こえる元気な声に、アッシュは再びペンを走らせた。
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