研究室
「帰れ」
扉の向こうから聞こえてきた声に、私は思わず吹き出した。
やっぱり面白い。
「帰らないわ」
私は即答した。
隣でフォレストが呆れている。
「エレ」
「何?」
「帰ろう」
「嫌よ」
私は扉を見つめる。
ここまで来て帰る理由がない。
だって私はまだ研究室を見ていないのだ。
「アッシュ」
返事はない。
「開けるわよ」
返事はない。
「返事がないから開けるわね」
「帰れ」
六回目だった。
私は満面の笑みを浮かべる。
「失礼します!」
そう言って扉を押し開いた。
⸻
次の瞬間。私は思わず目を見開いた。
「わぁ……」
研究室だった。まさに研究室だった。
広い部屋の中には本棚が並び、その全てが本で埋まっている。
机の上にも本。椅子の上にも本。
私は部屋の中を見回した。
すると机の上に置かれた奇妙な魔道具が目に入る。
透明な水晶だった。
淡く光を放っている。
「何これ?」
私が指差すと、アッシュが顔も上げずに答えた。
「翻訳魔道具」
「翻訳?」
私は思わず身を乗り出した。
どうやら魔道具に関することは答えてくれるらしい。
「古代文字を現代語へ変換する」
「えっ」
私は固まった。
もう一度魔道具を見る。
そして、もう一度アッシュを見る。
「本当に?」
「本当だ」
「全部?」
「全部ではない」
アッシュは少しだけ眉をひそめた。
「古代語の資料を学習させている途中だ」
「すごいじゃない!」
私は目を輝かせた。現在、私は王女として古代語の勉強をしている。王族は古い文献を読む機会も多いからだ。
正直に言おう。
難しい。
とても難しい。
眠くなる。
ものすごく眠くなる。
「これがあれば勉強しなくていいじゃない!」
私が叫ぶと、隣にいたフォレストは呆れた顔をした。
「駄目だろ」
「どうして?」
「自分で読め」
正論だった。だが納得はできない。
「便利なのに」
私はぶつぶつ言いながら魔道具を眺める。
そして、ふと一つの考えが浮かんだ。
「ねえアッシュ」
「何だ」
「これって応用できない?」
アッシュの手が止まる。
「応用?」
「ええ」
私は前世の記憶を辿りながら説明する。
「文字じゃなくて言葉」
「言葉?」
「例えば」
私は両手を広げた。
「そうね、大陸で1番難しい言語とされるリタ語ってあるじゃない?大陸の北西部出身の人が話す言葉よ?わかるかしら?そこの出身の人が話した言葉をそのままティアーナ王国の言葉に変換して話してくれるの」
部屋が静かになった。
アッシュが初めてこちらを見る。
黒い瞳がじっと私を見つめていた。
「続けろ」
私は少し嬉しくなった。興味を持ったらしい。
「逆もできるわ」
私は説明を続ける。
「こちらが話した言葉を、相手の国の言葉に変換して発声するの」
「……」
「そうしたら他国語を覚えなくても会話できるでしょう?」
アッシュは黙り込んだ。
考えている。
すごく考えている。
私は少し不安になる。
変なことを言っただろうか。
すると。
「理論上は可能だ」
アッシュがぽつりと呟いた。
「本当に?」
「音声認識の術式と翻訳術式を組み合わせればいい」
ぶつぶつ。
ぶつぶつ。
独り言が始まる。
完全に研究モードだった。
「エレ」
隣からフォレストが小声で言った。
「何?」
「お前」
「何よ」
「今の結構すごいこと言ったぞ」
私は首を傾げた。そうなのだろうか。
前世の感覚だと普通に思いつくことだった。
その時だった。
「おい」
アッシュがこちらを見る。
「何?」
「お前」
私は少し身構える。また帰れと言われるのだろうか。
しかし返ってきた言葉は予想外だった。
「邪魔じゃない時もある」
私は目を丸くした。
フォレストも固まる。
そして、
「それ褒めてるの?」
「知らない」
即答だった。
⸻
結局。
気付けばニ時間近く研究室にいた。
私は魔道具を見て回り、アッシュは研究を続け。
フォレストは疲れた顔で壁にもたれていた。
「そろそろお戻りください」
迎えに来た侍女がそう言った時には、もう昼が近かった。
「えー」
思わず声が出る。
「お食事の時間です。」
「分かったわ」
私は渋々立ち上がった。
そしてアッシュを見る。
「また来るわね」
アッシュは本を読んでいる。
返事はない。
「聞いてる?」
「来るな」
即答だった。
私は笑う。
「また明日!」
「早く帰れ」
七回目だった。
⸻
帰り道。
魔法塔の長い階段を下りながら私は上機嫌だった。
「楽しかったわ」
「そうか」
フォレストの返事は薄い。
「それに」
私はにやりと笑う。
「作りたい魔道具ができたの」
フォレストの足が止まった。
嫌な予感しかしないという顔をしている。
「やめろ」
「嫌よ」
即答だった。私は胸を張る。
「だって異世界なのよ?」
魔法があるのだ。
魔道具があるのだ。
作りたいものなんて山ほどある。
フォレストは深いため息を吐いた。
「魔法塔の平和が……」
私は聞こえないふりをした。
だって明日が楽しみだったから。
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