第八夜 八幡
亀山から武東鉄道の貨物列車に揺られ、さらにトラックを乗り継いで数時間。
俺たちはようやく、埼玉にある日本独立党の拠点、与野事務所へと帰り着いた。
「おかえりなさい! みんな、無事でよかった……!」
事務所の扉を開けた瞬間、出迎えてくれたのは香澄さんの明るい声だった。
彼女の後ろから、浜田さんがいつもの飄々とした様子で歩み寄ってくる。
「おう、お疲れさん。派手にやってきたみたいだな」
浜田さんは俺の肩をポンと叩き、労うように目を細めた。
その温かい出迎えに、張り詰めていた緊張の糸がふっと緩むのを感じた。
京都での死闘、伊勢でのバリケード正面突破、そして亀山への脱出。
怒涛のような数日間だったが、こうして見慣れた事務所の風景を見ると、ようやく「帰ってきた」という実感が湧いてくる。
「ただいま戻りました、浜田さん。……いろいろと…………、報告があります」
俺が真剣な表情で告げると、浜田さんも察したように表情を引き締めた。
「ああ、わかってる。積もる話もあるだろうが、まずは状況整理だ。奥へ行こう」
俺たちは荷物を置くのもそこそこに、作戦会議室へと移動した。
本来なら、無事の帰還を祝って乾杯でもしたいところだ。
だが、亀山倉庫で茉奈が見せた「あの光景」が、俺たちに休息を許さなかった。
◇
会議室の照明が落とされ、中央のモニターに茉奈が接続したタブレットの画面が映し出される。
それは、伊勢で覚醒した茉奈の『神域図』が捉えた、現在の日本の霊的状況をデジタルに落とし込んだものだ。
「……これは」
浜田さんが絶句する。
香澄さんも息を呑み、口元を手で覆った。
日本地図の上で、無数の光が明滅している。
だが、それ以上に目を引くのは、西日本を覆うどす黒い染みだった。
九州の南端、霧島連峰から始まったと思われるその闇は、熊本、福岡の一部を飲み込み、さらには中国地方の出雲にまで触手を伸ばしている。
「……酷いですね」
香澄さんが沈痛な面持ちで呟く。
単なる帝国の支配領域ではない。これは、神気そのものが汚染され、塗り替えられていることを示していた。
「クソッ、神凪さん……本州まで踏み込んできやがった……!」
浜田さんがモニターを睨みつけ、忌々しげに舌打ちをした。
その顔には、かつての師に対する複雑な感情と、焦燥感が入り混じっている。
「奴らも、どの神域が重要かということを理解しておるのじゃろうな」
詩織さんが扇子を広げ、厳しい表情で地図を見つめた。
「先に重要箇所を取りに来たということじゃ。出雲はこの国の『国譲り』の神話の舞台であり、統治の要。初めから力を増幅させるために狙っておったのやもしれん」
「九州にも主要箇所がいくつかあるから、もう少し時間がかかると思っていたが……九州全域を治めずに縦断してくるとはな」
浜田さんが腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔をする。
帝国の科学力による支配と、残光の呪術的な侵食。
その二つが同時に進行している現状は、俺たちが想定していたよりも遥かに最悪だった。
「……詩織さん」
俺は、京都で戦った男のことを思い出しながら口を開いた。
「あの東郷って男、独特の訛りがありました。『チェスト』とか『おいどん』とか……あれは、薩摩弁ですよね?」
「うむ。間違いない」
詩織さんが頷く。
「奴が使うておった剣術は『示現流』。薩摩に伝わる、一撃必殺の実戦剣術じゃ。それにあの訛り……。残光の主要メンバーは、薩摩の人間であると断定してよいじゃろう」
詩織さんは扇子で九州南部の霧島エリアを指し示した。
「神域図と照らし合わせると、奴らは霊峰・霧島連峰を拠点として活動しておったのじゃろう。そこから順に北へ移動し、各地の神域を喰らいながら能力強化を図り、出雲大社を勢力下に置いた……そう推測できる」
「なるほどな。屈強薩摩男児の精鋭部隊か。厄介な連中だ」
浜田さんがため息交じりに頭を掻く。
「残る大きい神域は……宇佐か」
浜田さんの視線が、大分県にある光の点に向けられる。
そこはまだ、黒い染みに飲み込まれていない数少ない聖域の一つだった。
「宇佐神宮。八幡神の総本宮ですね」
茉奈が補足する。
「九州は後回しにとでも考えているのか、それとも宇佐の結界が強固なのか……。いずれにせよ、ここが落ちれば九州は完全に落ちます」
重苦しい沈黙が部屋を包む。
帰ってきたばかりだというのに、状況は一刻の猶予も許さない。
祝杯をあげるどころか、休む暇さえなさそうだ。
「……数日休んでからと考えていたが、申し訳ない。みんな、九州まで一緒に行ってくれるか?」
浜田さんが、決意を込めた目で俺たちを見渡した。
「今回は俺も行こうと思う。神凪さんが出雲まで出張っていたら、宇佐を経由して戻るということもあり得そうな気がするんだ。現場で指揮を執る必要がある」
「浜田さんもですか? それは心強いですけど……事務所の守りは?」
「神谷さん、すまないが、あの話、今日の夜に間に合うか調整してもらえないか?」
浜田さんが香澄さんに視線を向ける。
香澄さんは、きりっとした表情で頷いた。
「今晩ですか? わかりました。あと、茨城のメンバーに応援を要請して、ここの警備体制を強化します。進めておきますね」
さすがは香澄さんだ。仕事が早い。
「詩織さん、宇佐神宮はどういう場所なんですか?」
俺の問いに、詩織さんが答える。
「宇佐神宮は八幡大神……すなわち応神天皇を祀る、武運の神様じゃ。国造りの神としての側面も持つ。由緒からして、尊か茉奈、どちらかには力を授けてくれるじゃろう。違ったとしても、祈り奉ることで何かしら対抗策が得られるのではないかの?」
「そうだといいな。でもそこを悩んでもしょうがないか。とりあえず現地を抑えに行くか」
浜田さんがパンと手を叩き、空気を切り替えた。
「出発は夜10時ちょうど予定だ。それまで各自、仮眠をとるなり準備をするなりして休んでくれ。申し訳ないが、もうひと頑張り頼むよ」
「わかりました!」
俺たちは力強く返事をした。
疲れてはいる。けれど、やるべきことは明確だ。
◇
会議が解散となり、リビングに戻った俺たち。
張り詰めた空気が少し緩み、ようやく「お土産タイム」となった。
「浜田さん、香澄さん! これ、京都と伊勢のお土産です! 是非食べてください!」
茉奈が嬉しそうに紙袋を広げる。中には八ッ橋や赤福といった定番のお菓子が詰まっていた。
「おっ、気が利くなぁ。腹減ってたんだよ」
「ありがとう、茉奈ちゃん。後でみんなでいただきましょうか」
「浜田さんは出発前までに食べなきゃだよ! 賞味期限短いんだから!」
葵が浜田さんの袖を引っ張って急かす。その微笑ましい光景を眺めながら、俺は隣にいる煉を肘でつついた。
「ほら、煉。お前もアレ、渡せよ」
「う……、うん……」
煉は顔を真っ赤にして、背中に隠していた小さな包みを握りしめている。
京都の新京極で、詩織さんにからかわれながらも必死に選んだ、あのお土産だ。
「あ、あの、香澄さん……」
煉がおずおずと香澄さんに近づく。
香澄さんが不思議そうに振り返る。
「あら、煉くん? どうしたの?」
「こ、これ……! 京都で、その、香澄さんに似合いそうだなと思って……!」
煉は裏返った声で叫ぶように言うと、包みを突き出した。
香澄さんは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにふわりと優雅な笑みを浮かべた。
「まあ……私に?」
彼女は包みを受け取り、丁寧に包装を解く。
中から現れたのは、藤色の玉かんざし。
派手すぎず、かといって地味でもない、大人の女性に似合う上品なデザインだ。
「へぇ……素敵なかんざし。煉くん、私の好みよくわかってるじゃない」
香澄さんはかんざしを手に取り、自分の髪に当てて見せた。
そして、少し悪戯っぽい、艶のある視線を煉に向ける。
「嬉しいわ。……今度、デートの時に着けていこうかしら?」
「で、ででで、デートぉぉっ!?」
煉の顔が沸騰したように赤くなる。
口をパクパクさせて、言葉にならない音を発している。完全に舞い上がっていた。
「ふふっ、冗談よ。でも、本当にありがとう。大切にするわね」
香澄さんは煉の頭をポンポンと優しく撫でた。
「あ……はい……! よ、よかったです……!」
煉は骨抜きにされたようにへなへなと座り込んだ。
その様子を、少し離れたところから見ていた詩織さんが、扇子で口元を隠して肩を震わせている。
「くくく……若いのぉ。香澄の手のひらで転がされおって」
「まあ、煉にとってはご褒美みたいなもんでしょう」
俺も苦笑しながら言った。
香澄さんは、煉の気持ちに気づいているのかいないのか。
茨城事務所の頼れるお姉さんであり、同時に煉にとっては憧れのマドンナ。
その距離感は、見ていて微笑ましくもあり、少しだけ煉が不憫でもあった。
「……悪い人ですねぇ」
「……悪女じゃのぅ」
俺と詩織さんの声が重なる。
緊迫した状況の中での、ほんのひと時の安らぎ。
神の力を得ても、俺たちはまだ年相応の人間だ。
恋をして、悩んで、笑い合う。
そんな当たり前の日常を守るために、俺たちは戦っているのだと、改めて思った。
数時間後には、また敵地九州へと向かうことになる。
九州、宇佐神宮。
そこには何が待ち受けているのか。
俺は窓の外、西の空を見上げた。
黒い雲が渦巻くその向こうへ、希望の光を届けるために。
俺たちの戦いは、ここからさらに激しさを増していく――。
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