第九章:秘密に触れる影
施設の廊下を歩いていた惇也は、職員用掲示板の前で足を止めた。
そこには来週からの勤務シフトと、見慣れない名前――新任の生活支援員・安藤梨奈――が貼られていた。
その日の午後、惇也は中庭で澪と話していた。
澪は白いリボンを手首に巻き、ゆっくりと編み込むように指で遊んでいる。
それは、惇也にとってはただの仕草ではなく、“今は距離を置いて”という合図だった。
そこへ、背後から明るい声が飛んだ。
「あ、澪ちゃん! それかわいいね。手作り?」
振り向くと、若い女性職員が立っていた。
胸元の名札には「安藤梨奈」と書かれている。
人懐っこい笑顔で、澪の手首を覗き込む。
「あ、この刺繍、“MIO”って……自分でやったの?」
澪はぬいぐるみを抱きしめ、顔を逸らした。
しかし梨奈は悪気なく、さらに問いかける。
「ねえ、これ何の意味があるの? おしゃれ?」
その瞬間、惇也の背筋がわずかに強張った。
リボンの意味は二人だけの秘密――外の人間に知られたくない、絶対の約束だった。
「それは……澪が気分でつけてるだけだよ」
惇也は努めて軽く答えたが、梨奈はまだ興味深そうに澪の手首を見ていた。
そして何気なく、指先を伸ばし――リボンに触れようとした。
「触らないで!」
思わず惇也の声が鋭くなった。
梨奈は驚いたように手を引っ込め、軽く笑ってその場を去った。
澪はしばらく俯いたままだったが、やがてリボンをゆっくりと外し、惇也の膝の上に置いた。
その仕草は、まるで「もう意味が壊れた」と言っているようだった。
惇也は何も言えなかった。
秘密を守ることの難しさと、その脆さを痛感しながら――。




