第十章:新しい合図
リボン事件から三日が経った。
澪はあの日以来、一度も手首に布を巻こうとしなかった。
それどころか、リボンが置かれていた棚の引き出しすら開けない。
惇也は、壊れてしまった約束の重みを感じていた。
ある夕方、施設の小さな図書室で、惇也は澪と並んで座っていた。
彼女は絵本を開いていたが、視線はページを通り抜け、遠くを見つめている。
指先が机をトントンと一定のリズムで叩いていた。
「……その音、気持ちいい?」
惇也がそう尋ねると、澪は一瞬だけ目を動かし、小さくうなずいた。
惇也は考えた。
リボンのように目に見えるものではなく、もっと外から気づかれにくい、二人だけの“合図”が必要だ。
そこで、澪の指のリズムをそっと真似して机を叩いた。
すると、澪はぬいぐるみを抱きしめ、表情をわずかに緩めた。
「じゃあ、このリズムを……“いや”ってときのサインにしようか」
惇也は机を軽く二度叩き、短く間を置き、もう一度二度叩いた。
タン、タン――タン、タン。
単純だけど、言葉より確実で、他人には意味が伝わらない。
澪はその動きをじっと見つめ、同じように机を叩いた。
タン、タン――タン、タン。
音が静かな図書室に溶けていく。
「これなら、誰にも知られない」
惇也の言葉に、澪は微かに微笑んだ。
それは、壊れた信頼が少しずつ繕われていく瞬間だった。
夜、澪は自室の前で立ち止まり、机の上をトントンと叩いた。
そのリズムは、惇也にとって“また明日も話そう”という合図のように聞こえた。




