第五章:深夜の涙
夜の施設は静まり返っていた。
廊下の蛍光灯は半分が落とされ、薄暗い明かりが長く床を照らしている。
惇也はナースステーションのモニターに目を落としながら、紙コップのコーヒーを一口啜った。苦味が口の中に広がる。
深夜帯の見回りは交代制だったが、今夜はなぜか眠れず、自主的に起きていた。
(何をしてるんだろう、俺は)
そう心の中でつぶやく。
惇也はふと、ある映像に目をとめた。
監視カメラの一つに映った、あの白い影──澪の部屋。
彼女はベッドから起き上がり、カーテンの隙間から夜空をじっと見つめていた。
何かがおかしい。
直感だった。惇也はゆっくりと車椅子を動かし、澪の部屋へと向かった。
ノックをする。反応はない。
「……澪さん?」
そっと扉を開けると、部屋の中はほの暗かった。月明かりだけが、彼女の頬を照らしていた。
そして、その頬には――光るものがあった。
澪は、泣いていた。声もなく、ただ、涙だけが流れていた。
「……どうしたんだ、澪」
惇也は思わず声を落とし、そばまで近づいた。
澪はぬいぐるみを胸に抱えたまま、ただ前を見つめていた。彼女の瞳は、どこか遠く、誰にも届かない場所にいた。
惇也は、彼女の横に止まった車椅子から、手をそっと伸ばす。
その指が彼女の腕に触れた瞬間、澪は一度だけ、小さく震えた。
「……怖い夢を見たの?」
返事はない。
けれど、澪の涙が止まった。
それが答えだと、惇也は感じた。
「怖い」ではなく、「誰かにそばにいてほしい」――そんな叫びだったのかもしれない。
惇也は何も言わず、ただその場で静かに佇んだ。
言葉は、今は不要だった。
どれだけの時間が過ぎたのか。
やがて澪は、ぬいぐるみを自分の膝に置くと、初めて、自分から惇也の方へ顔を向けた。
そして、涙の残る目で、まっすぐに彼を見た。
その目にあったのは、たしかな“信頼”だった。
その瞬間、惇也の心に、痛みのような温かさが走った。
(……救われたのは、俺の方か)
彼は胸の奥でそうつぶやいた。
その夜の出来事は、記録にも報告にも残らなかった。
けれど、それは澪と惇也の間に初めて生まれた、目に見えない「つながり」として、確かに存在していた。




