第四章:誰にもわからない言葉
「……最近、惇也さん、澪ちゃんとよく話してるね」
夕方の休憩室。紅茶を片手に、沙耶がぽつりとつぶやいた。
「ええ。話しているというより、見ている、というか……観察、ですかね」
惇也は答えながら、自分の言葉にどこか釈然としないものを感じていた。
「観察……ねぇ。あの子に“言葉”は通じてるの?」
「“通じる”かはわかりません。でも……“感じてる”と思います」
沙耶はわずかに眉をひそめた。その表情の意味は、惇也には読み取れなかった。
──
その日、澪は珍しく自ら立ち上がり、ゆっくりと中庭の花壇の前まで歩いていった。
惇也は少し離れた場所からその様子を見ていた。彼女は花に手を伸ばし、ひとつひとつの花びらを、まるで文字を読むかのように丁寧に撫でていた。
「きれいだね」
惇也が声をかけると、澪は立ち止まり、振り返った。
風が吹いた。日差しの中で彼女の髪が揺れ、まるでそれが返事のようだった。
「……君は、ほんとうに黙ってるだけなんだね。誰よりもたくさん話してるのに」
惇也は自分でも不思議だった。彼女に話しかけるたび、自分の中から言葉が消えていくような感覚になる。それでも、通じている気がするのだ。
澪がそっと胸元にぬいぐるみを押し当てる。それは「大丈夫」のサインだった。
惇也はそっと頷き、車椅子のブレーキを解除して彼女の横へ移動した。ふたり並んで、花壇を見つめる。
その沈黙の時間こそが、会話だった。
──
だが、そのやりとりを、遠くから見ている視線があった。
沙耶だった。
彼女の目は、わずかに濁っていた。静かで、冷たい観察者の眼差し。
(あの子に、そんな“感情”があるとでも?)
沙耶は唇を噛んだ。
惇也の目に映る“澪”と、自分が見てきた“澪”は、違う。ずっと違う。それは、彼が見ている幻想にすぎない。
彼が、彼女に触れようとするたびに、自分の中の何かが、軋むように痛んだ。
──
「ねえ、澪ちゃん。あの人のこと、好きなの?」
その日の夜、沙耶は澪の部屋を訪れ、唐突にそう問いかけた。
澪はベッドの上でぬいぐるみを抱いたまま、沙耶の方を見つめていた。
「……」
「好き、って……わかる?」
澪は何も言わなかった。ただ、その目には、わずかに怯えがあった。
沙耶はそっと澪の髪を撫でた。その手つきは優しいようでいて、どこか支配的だった。
「わからないよね。だって、あなたは――」
その先の言葉は、呑み込まれた。
澪がそのとき見せた、ほんの小さな、しかし確かな“拒絶”の目線を、沙耶は初めて見たからだった。
(……あなたには、わからない)
そのまなざしが、そう語っていた。




