第三章:目と目が合った日
午後二時。中庭に移動する時間帯、惇也は澪の居場所を尋ねた。
「澪ちゃん? ちょうど今、外に出てるわよ。あの白い日傘、見えるでしょ?」
言われた方角を見やると、白い布地が風に揺れていた。
惇也は車椅子を操作して、ゆっくりと中庭へ向かった。芝生の上は少し傾斜があったが、彼の動きに迷いはない。静かな風が頬を撫で、夏の匂いが辺りに漂っていた。
澪は、そこにいた。例のぬいぐるみを抱きしめ、ベンチに座って空を見上げている。
「こんにちは。天川澪さん……で、いいんだよね」
返事はない。
だが、次の瞬間。澪の視線が、ふと動いた。空から、惇也へ──
目と目が合った。
惇也はその瞬間、息を呑んだ。
その瞳の奥にあったのは、感情だった。説明のつかない、形のない、けれど確かな何か。そこには、単なる知的障害者の“空白”ではなく、人格のかけらが宿っていた。
「暑いね、今日は」
彼がそう話しかけると、澪は少しだけぬいぐるみに顔を埋めた。拒絶ではなかった。むしろ、それは照れ隠しのようにも見えた。
「これ、君の大事な友達?」
ぬいぐるみを指差すと、澪はほんの少しだけ頷いた。
(通じている……)
惇也の心に、微かな震えが走った。
それは、共鳴だった。言葉ではなく、仕草でもない。その奥にある、魂の底から響く何か。
その日から、彼は変わっていく。彼女という存在が、自分の何かを揺さぶり始めていたのだった。




