第二章:車椅子の青年
午前九時。福祉施設「白百合の園」の正面玄関に、一台の福祉車両が停まった。
車椅子を自力で操作してゆっくりと降りてきたのは、早乙女惇也──二十八歳。黒縁の眼鏡とシンプルなシャツに身を包み、短く整えられた髪からは几帳面さがにじみ出ていた。車椅子の両輪には泥の跡が残っており、遠方から来たばかりであることを物語っていた。
「本日より勤務される早乙女さんです。皆さん、よろしくお願いしますね」
施設長の紹介を受けながら、惇也は職員室で軽く頭を下げた。自己紹介は手短に済ませたが、その声にはどこか重みと落ち着きがあった。過去に何度か似た施設で働いた経験があるらしい。
「……で、お足のことなんですが」
「ああ、大丈夫です。必要な介助はこちらから伝えますので」
そう即答した惇也に、職員たちは少し驚いたような目を向けた。
惇也は生まれつき障害があったわけではない。十代後半、事故により両脚を失った。手術とリハビリの末に社会復帰を果たしたものの、どこか達観したような空気が彼の周囲には常につきまとっていた。
その日、彼は早速、担当する利用者のリストを受け取った。
「この子が、天川澪ちゃん。意思疎通は難しいけど、おだやかな子よ。ただ……ちょっと扱いが難しい部分もあるから、慎重にね」
澪という名前に、惇也はふと目をとめた。
(天川澪──どこか、惹かれる響きだ)
それは単なる直感だった。名前の音、その文字列に、なぜか小さな波紋が心の中に広がった。
その午後、惇也は澪と初めて対面することになる。
彼女がどんな表情を見せるのか、言葉を交わせないその存在が、自分に何をもたらすのか。
彼には、まだ知る由もなかった。




