季節がめぐる中で 106
廊下は果てしなく続いた。
嵯峨もこの建物の内部についてはほとんど知識が無かった。ただ娘を先導する女官についていくだけ。そして自分の目の前で彼から見ても凛々しく見える娘の姿に再び涙が出るのを堪えての歩みは重いものだった。幸い嵯峨の控え室に当たるである茶臼の間に至るまで誰一人として殿上会に出る公卿達とすれ違うことは無かった。
静かに部屋の前に立っていた女官が正座をしてゆるゆると襖を開いた。部屋に入ろうとした楓が立ち止まったのを見て、嵯峨はそのまま部屋を覗き込んだ。
五十畳はあろうと言う嵯峨家のためだけにあるはずの『茶臼の間』には先客がいた。
「遅いな、新三郎」
そう言って扇子で嵯峨を指していたのは公家姿の礼装を見に纏った兄、西園寺基義だった。
「ご無沙汰しております。伯父上」
そう言うとそのまま部屋の中央で座っている伯父の前へと歩み出る楓。嵯峨もその後をついて部屋に入って中の様子をうかがった。
壁には金箔を豪勢に使った洛中図が描かれ、黒い柱は鈍い漆の輝きを放っている。正直、嵯峨はこのような場所にこれまで足を踏み入れなかった自分の決断が正しかったと思い、皮肉めいた笑みを浮かべながら西園寺基義の正面に座った。
「そこはお前の場所ではないんじゃないか?」
そう言う兄の声に気づいたように嵯峨は三歩後ずさった。そして楓は空気を察したように伯父の正面に腰を下ろした。
「この度の家督相続。祝着である」
その西園寺基義の一言を聞いた屏風の後ろに控えていた白い直垂の下官が三宝に乗せた杯と酒を運んでくる。その様子を見て、嵯峨はこれもまた家督相続の儀式であると言うことを始めて知った。戦中の嵯峨自身の家督相続はすべて書面だけで行われ、儀式をしようにも嵯峨の身柄は内乱の気配が漂う遼南の地にあってこのような舞台は用意されることも無かった。
下官に注がれた杯を飲み干す西園寺基義。そして彼は静かにその杯を正面に座る姪の楓に差し出した。楓の手が震えているのが嵯峨の視点からも見て取れた。珍しく娘の成長した姿を親の気持ちで眺めている自分がいることに嵯峨は戸惑っていた。
受けた杯を飲み干す楓。
「源朝臣。三位公爵に叙する」
「ありがたくお受けいたします」
西園寺基義の言葉に拝礼する楓。それを見ながらそのまま三方を持って部屋を出る下官。
完全に下官達が去ったのを確認するように伸びをした後、基義は突然足を投げ出した。
「ああ、待たせるなよ。つい地がでるところだったじゃねえか!」
そう言いつつ手にした扇子を右手にばたばたと仰ぐ基義。嵯峨も兄の間延びした顔を見て足を投げ出す。
「これで新三郎はめでたく胡州の枷から外れたわけだ。しかし……」
基義の顔が緩んでいたのは一瞬のことだった。すぐに生臭い政治の世界の話が始まるだろうと嵯峨は覚悟を決めた。
「醍醐のとっつぁんの話なら無駄ですよ」
まだ緊張から固まったように座っている楓の肩を叩く嵯峨はそう言い切った。家督相続の儀式を半分終えた安心感から、大きくため息をついた彼女を見て嵯峨は少し自分を取り戻して兄の顔を見つめた。




