5
クリシュエという名前はあるが、その名を聞いてもどこのことを指しているのかわからないと答えられ、そしてそこに住む住人たちは自分たちの住む場所であるにもかかわらず、その名を知らないというほど村がある。
その村の外れと言ってもいいほどの場所に建っている家には今、一人の女とその子供がいた。
女がもう何度目かわからないほど、もはや縫い直していない箇所がないというほど着古した服に空いてしまった穴を縫っている。
子供はその姿を少し離れたところから黙って見ていたのだが、女が縫う手を一度止めて肩をほぐしているところで話しかけた。
「あ、あの…」
「ん、おや、見ない顔だね? どこから来たんだい?」
「ち、ちが……その…ボクは…」
「おや、あんた男の子だったのかい」
「えっと…ボク、女の子…です」
「あら、そうだったのかい。男の子だなんて言ってすまなかったね」
「い、いえ…」
「それで、あたしになんか用かい? それと、あんたのお母さんかお父さんはどこにいったんだい? …全く、こんな小さな子供を…しかも女の子をおいてどっか行くなんてろくな親じゃないね!」
子供…少女が、その女の言葉を聞いて気まずそうな顔をしたのだが、女は無責任な親だと1人怒っているので気付かなかった。
「あ、あの!」
「ん? ああ、ごめんよ、あんたの親への説教は後にして、今はあんたの話を聞かないとね」
「ボクの親は……」
「あんたの親は?」
「……」
「?」
少女が無言で女の方を指差したので、女は背後の窓の外にいるのだろうかと首を傾げながら振り返った。
しかしそこには誰もいなかった。
女は少女の方に顔を戻したのだが、少女はまだ女の方を指差していた。
「…もしかして、村の方にいるって言いたいのかい?」
女の問いかけに、少女は首を横に振った。
女が"村の方に"と言ったのは、女の家が村のはずれにあることから、少女にわかりやすいように配慮した結果である。
「ん〜…じゃああれかい。あんたの両親はもう死んでて、あんたはその幽霊が見えるとか?」
(もしくはあたしをからかってるのか、だけど……。そんなことをする理由もないだろうしねぇ…)
女の問いかけに、少女はまた首を横に振った。
少女の否定に、女はでは一体どういう意味だろうかと頭を悩ませた。
しばらく女が黙考し、少女がそれを待つ時間が続いたのだが、ついに少女が沈黙を破った。
「…お母さん」
「…ん?」
少女は女を指差したままそう言った。
女はその意味がわからず、首を傾げた。
そして後ろを振り返り、やはり誰もおらず、少女が自分のことをお母さんと呼んだのだと思い至った。
念のために少女に確認する。
「え〜と…あたしのことってことかい?」
「…うん、お母さん」
少女が頷きそう言ったことで、やはり少女は女を指してお母さんと言ったことが証明された。
「って言われてもねぇ…。あたしにはあんたみたいな子供……ん?」
女は目の前の、自分のことをお母さんと呼んだ少女のような子供はいないと言いかけ、何かが引っかかった。
(あたしには子供が…いた? 確かに産んだ記憶があるような……? …そうだ、確かに産んだんだ。 でも…女の子だったのかね? いや、そもそも本当にこの子なのかね? あれ、でもそういえば子供を産んだとして、その子はどこにいるんだい? …とすると、本当にこの子が? でもあたしがこの子と暮らしてたなんて記憶は…それに見覚えもないんだよねぇ)
考えれば確かにその可能性はあると思えるのだが、記憶を辿ってみても目の前の少女が自分の子供だという確信が持てなかった。
「お母さん、これ」
「それは……ってことは、あんたは本当にあたしの子みたいだね…」
そう言って少女が取り出したものを見て、ようやく女は自分の子供だと認めた。
やはり記憶はないのだが、証拠を見せられては認めざるを得なかった。
(そのペンダントはあのロクデナシから貰った、あたしの大切なもんだからね…。大喧嘩して思わず投げ捨てちまった時についたその傷をみれば、あたしのもんだってことは違いないしね)
少女が見せたのは女の夫が女に贈ったペンダントだった。
その表面には大きな傷があった。
「ごめんね…なんでかわからないんだけど、あんたのことが思い出せなくて……えっと…あれ? あんたの名前も…なんで…わからないんだい?」
「お母さん、ボクの名前はジュノだよ。お母さんから貰った…大切な名前」
「…本当にごめんね」
自分の子だというのに名前も思い出すことができず困惑する女だったが、少女の言葉に冷静になるとともに、不甲斐なくて申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。
その時、少女の空腹がぐぅぅ…とを訴えた。
「ははは…とりあえずご飯にするかい。ジュノ、何が食べたい?」
「パン…が……」
「なんだい遠虜なんかして。あんたは女の子なんだから、いっぱい食べて綺麗にならないと嫁の貰い手がなくなるよ? あたしみたいないい女になっていい男捕まえなきゃ! …ま、ロクデナシに捕まったあたしが言うのもなんだけどね」
女はそう言うと楽しそうに笑った。
少女は笑顔を浮かべていたが、どこか無理をしているような笑顔だった。
それもそのはずだろう。
少女はこのやり取りを生まれて物心がついた時からずっと繰り返しているのだから。
その頻度は数年や数ヶ月ごとではない。
日に数回……より正確に言うのであれば、顔を会わせるたびにやっている。
これは女に限った話ではなく、村にいる人々全員…つまり少女が出会う人全員が同じ反応を、少女のことを忘れているのである。
(…これがボクの能力『完全に透明な世界』。)
そう、少女は例の意識の塊と言う形で"不定の女性"の前に現れた転生者だ。
少女が与えられた能力『完全に透明な世界』は単に忘れられるというだけの能力ではない。
その本領は『認識阻害』にある。
気配を消す、感知されにくくなるなどという生ぬるいものではない。
会話している相手や接触している相手にでさえ、その存在が認識されにくくなり、相手には曖昧にしか認識することができないのだ。
目の前に確かに存在しており今自分と話しているのに、その顔や声を含めた特徴が、全てぼんやりとしか認識できないといった具合だ。
影のようなものと話しているような感覚というのが近いだろうが、影という特徴がある分、そちらの方がマシだと言えよう。
(そしてその制約は……解除不可。)
"不定の女性"が少女に与えたものは、解除不可能な認識阻害だった。
毎日顔を合わせている女ですら少女のことを忘れてしまうほどなのだから、『誰かに強いられることのない自由な』という『"不定の女性"の』言った通りの能力ではあるのだろう。
しかし、おそらくこれは『少女の望んだ通りの自由』ではない。
もしこれが少女の望み通りの能力だとすれば、少女が今浮かべているような諦めにも似た感情を多分に含んだ表情はなかっただろう。
そして少女はまた繰り返す。
女の
「ちょっと作りすぎたかね…2人分くらいあるんじゃないかい? …ん、おや、見ない顔だね? どこから来たんだい?」
という言葉から。




