第九章 金色の残響
セリナは、写真をもう一度拡大した。
三度目だった。
古い写真は粒子が粗く、細部は潰れている。それでも、銃の輪郭だけははっきりしていた。
ブローニング・ハイパワー。
スライドの曲線。グリップの角度。トリガーガードの形状。見慣れた銃だった。いや、見慣れているどころではない。彼女の手には、同じ銃が二挺ある。
ただし、写真の中のそれは銀色ではなかった。
黄金色だった。
「……メッキかしら」
独り言を口にしてから、セリナは首を振った。
写真だけで判断できるわけがない。表面処理の種類も、彫刻の深さも、光の当たり方もわからない。まして、何十年も前の写真だ。
彼女は画像をさらに拡大した。
王冠。二頭のライオン。棘のある薔薇。
そして、銃身の下に刻まれた小さな三日月。
「凝ってるわね」
その声には、仕事の対象を観察するときの冷静さがあった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
セリナはスマートフォンを伏せた。
銀花の清掃は、もう終わっている。
二挺はいつもの場所に並んでいた。銀色のスライドには、部屋の照明が細い線になって映っている。金色の引き金と撃鉄。琥珀色の木製グリップ。薔薇と天使の彫刻。
彼女は右の一挺を手に取った。
「あなたたちのほうが、きれいよ」
言ってから、少しだけ笑った。
誰に言い訳をしたのだろう。
銃にか。それとも、自分自身にか。
*
翌朝、セリナは再び古い倉庫を訪れた。
昨日の管理人は、彼女の顔を見ると、わずかに眉を上げた。
「何か忘れ物でも?」
「質問がひとつ」
「昨日も、そうおっしゃっていましたね」
「昨日は三つだったわ」
管理人は笑わなかった。
セリナは封筒から、スマートフォンに保存した写真を見せた。
「この銃について、ほかに資料はありませんか。所有者の記録でも、修理記録でも、何でも」
管理人は画面を見た。
ほんの一瞬だった。
だが、彼の目は銃ではなく、写真の端にある小さな文字を追ったように見えた。
「ありません」
「ずいぶん早い返事ね」
「古い資料ですから。残っていないもののほうが多い」
「そうでしょうね」
セリナはスマートフォンをしまった。
帰るつもりだった。
本当に、そのつもりだった。
しかし、管理人が書類を片づけるために奥へ入ったとき、彼女は棚の隅に置かれた薄い台帳に気づいた。
背表紙には、年代だけが記されていた。
一九三八年。
セリナは手を伸ばしかけて、止めた。
勝手に見るのは趣味が悪い。
そう思った。
それから、もう一度、手を伸ばしかけた。
「ご覧になりますか」
背後から声がした。
管理人が戻っていた。
セリナは振り返った。
「許可があるなら」
「中身は大したものではありませんよ」
「大したものかどうかは、見てから決めるわ」
管理人はしばらく彼女を見つめた。それから台帳を開き、あるページを示した。
そこには、短い記録があった。
銃器二挺。
特別仕上げ。
所有者欄、空白。
備考欄には、別の筆跡でこう記されていた。
――二挺を分けることなかれ。
セリナは文字を見つめた。
「誰が書いたの?」
「わかりません」
「いつ?」
「それも」
「便利な資料ね」
「古い資料とは、そういうものです」
セリナは台帳から目を離さなかった。
「この記録の銃が、写真の黄金銃だという証拠は?」
「ありません」
「では、銀花だという証拠もない」
管理人は答えなかった。
セリナは顔を上げた。
「銀花?」
自分で口にした言葉に、彼女自身が少し驚いた。
管理人の表情は変わらない。
「あなたが、そう呼んでいるのでしょう」
「……誰から聞いたの?」
「昨日、写真を見せていただいたときに」
セリナは思い返した。
昨日、彼女は銀花の写真を見せていない。
見せたのは、古い写真に写っていた黄金銃だけだ。
「私、銀花の話はしていないわ」
管理人は台帳を閉じた。
「そうでしたか」
その声は、謝罪にも、言い逃れにも聞こえなかった。
ただの事務的な返事だった。
セリナは彼の顔を見つめた。
白髪の老人でも、謎めいた骨董商でもない。どこにでもいそうな中年男だった。疲れた目。擦り切れた袖口。爪の間に残った黒い汚れ。
銃の専門家には見えない。
嘘をついているようにも見えない。
「もうひとつ聞いていい?」
「どうぞ」
「この銃を、今も持っている人は?」
「知りません」
「探す方法は?」
「ありません」
「本当に?」
管理人は、わずかに首を傾けた。
「探したいのですか?」
セリナはすぐには答えなかった。
探したい。
そう口にすれば簡単だった。
黄金銃を見たい。手に取りたい。重量を確かめたい。スライドを引いた感触を知りたい。彫刻を光にかざして、職人がどこまで金属を削り込んだのか、自分の目で確かめたい。
そして、できることなら。
自分のコレクションに加えたい。
その最後の願望だけは、どうしても口に出せなかった。
「資料として、興味があるだけよ」
「そうですか」
管理人はそれ以上、何も尋ねなかった。
その無関心さが、セリナには少し気に入らなかった。
*
帰宅すると、セリナは銀花を取り出した。
二挺を並べ、照明の角度を変える。
右の銃。左の銃。
枯れた薔薇と、咲いた薔薇。
翼のない天使と、翼のある天使。
王冠の小さな刻印。
片方の王冠には、先端の欠けがある。
彼女はルーペを持ってきた。
欠けた部分を調べる。
傷ではない。
少なくとも、表面が削れた跡はない。金属が欠落した形跡もない。彫刻そのものが、最初からその形だったかのように滑らかだった。
セリナはルーペを置いた。
「あなた、いつからこうなの?」
銃は答えない。
もちろんだ。
彼女は小さく息を吐き、スマートフォンを手に取った。
黄金銃の写真を開く。
画面の中では、二挺の金色のハイパワーが並んでいる。片方の王冠は完全で、もう片方は先端が欠けている。
セリナは銀花を見た。
それから写真を見た。
もう一度、銀花を見た。
「……偶然よ」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
見知らぬ番号からのメッセージだった。
添付ファイルはひとつ。
画像を開く。
古い写真ではなかった。
鮮明な、現代の写真だった。
薄暗い部屋。緑色の作業台。黒い布の上に置かれた、一挺の黄金銃。
王冠。二頭のライオン。棘のある薔薇。
そして、写真の右下には、手書きの短い文字があった。
「一挺だけ、見つかりました」
セリナは息を止めた。
差出人の名前はない。
位置情報もない。
撮影日時も表示されていなかった。
彼女は画像を拡大した。
金属の表面に、細い擦り傷がある。
グリップの木目。
撃鉄の輪郭。
スライドの刻印。
写真の端には、ぼんやりと人影が映っていた。
顔は見えない。
ただ、その人物の手だけが写っていた。
銃に触れている右手。
薬指に、銀色の指輪。
セリナは自分の手を見た。
彼女の右手にも、同じ指輪があった。
いや、同じではない。
彼女のものは、母親から譲られた古い指輪だ。装飾も模様もない、ただの銀の輪。
写真の指輪も、同じように見えた。
それだけだった。
それだけのことだった。
セリナは画像を保存した。
そして、保存したことを後悔した。
スマートフォンを伏せる。
銀花を見つめる。
「……調査のためよ」
今度は、声に出さなかった。
窓の外で、何かが落ちる音がした。
セリナは振り向かなかった。
彼女は二挺の銀花を、いつもより少しだけ近づけて置いた。
その夜、彼女は夢を見なかった。
翌朝、目を覚ますと、スマートフォンには新しい通知がひとつ届いていた。
昨夜の画像が、もう一度送られてきていた。
今度は、短い文章が添えられていた。
「あなたの二挺は、まだ銀色ですか?」
セリナは画面を見たまま、長いあいだ動かなかった。
それから、ベッドを出て、銃の置いてある部屋へ向かった。
銀花は、昨日と同じ場所にあった。
銀色のままだった。
セリナは二挺を手に取り、光にかざした。
そして、ほっとした自分に気づいた。
その安堵が何に対するものだったのか、彼女にはわからなかった。




