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第八章 黄金の誘惑

住所は、古い倉庫のものだった。


セリナはスマートフォンの地図を見ながら、錆びたシャッターの前に立っていた。


海に近い埠頭だった。


風が強い。潮の匂いに、古い油と濡れた鉄の匂いが混じっている。倉庫の壁には、剥がれかけた塗料の下から、かつての会社名らしき文字が覗いていた。


紙片に書かれた住所は、間違っていない。


だが、ここに何があるというのだろう。


セリナはシャッターの脇にある小さな扉を叩いた。


返事はなかった。


もう一度叩く。


今度は、内側で金属の擦れる音がした。


扉が開いた。


現れたのは、五十代ほどの男だった。無精髭に、皺の深い顔。セリナを見ても、驚いた様子はない。


「三浦さんの関係者か」


「三浦?」


「違うのか」


「その名前を、どこで?」


男は答えず、扉を大きく開いた。


「入れ」


セリナは少し考え、それから中へ入った。


倉庫の中は薄暗かった。


木箱が積まれ、古い機械が布をかぶせられている。壁際には金属製の棚が並び、そこに古い書類箱がいくつも置かれていた。


男は奥の机へ向かった。


「俺は管理を任されているだけだ。中身については、知らないことのほうが多い」


「それで、何を管理しているの?」


「昔の記録だ」


「ずいぶん大雑把ね」


「詳しく説明できるほど、俺も詳しくないんでね」


男は机の引き出しから、茶色い封筒を取り出した。


封筒には、古い文字で「三浦家関係資料」と記されている。


セリナは眉を寄せた。


「三浦というのは、私の曽祖父かもしれない」


「かもしれない?」


「まだ確かめていないわ」


男は封筒を机に置いた。


「なら、確かめればいい」


中には、数枚の書類と、折り畳まれた手紙が入っていた。


セリナは手紙を開いた。


古い日本語だった。ところどころ、インクが滲んでいる。


『ベルリンにて、思いがけぬ贈り物を受けた。


二挺の拳銃である。


贈り主は、これを友情の証と呼んだ。


私は礼を述べたが、妻は箱を開けたとき、ひどく不安そうな顔をした。


なぜかと尋ねると、彼女は答えた。


「この銃は、誰かを待っているように見える」と。』


セリナは読み終えた。


「妻というのは?」


「そこまでは記録にない」


「贈り主は?」


「名前がない」


「いつの手紙?」


「日付はない」


セリナは手紙を置いた。


「役に立たない資料ね」


男は肩をすくめた。


「古い記録なんて、そんなもんだ」


セリナは封筒の中をもう一度探った。


その底に、小さな写真があった。


写真には、開かれた木箱が写っている。


箱の中には、二挺の拳銃。


銀色だった。


セリナは息を止めた。


銀花と同じ形。


同じグリップ。


同じ彫刻。


ただし、写真は古く、表面が擦れている。色も失われていた。


彼女は写真を窓の光にかざした。


「これ、どこから?」


「その封筒に入っていた」


「誰が撮ったの?」


「知らない」


「いつ?」


「知らない」


セリナは男を睨んだ。


「あなた、知らないことばかりね」


「だから管理人なんだよ」


男は悪びれずに言った。


セリナは写真を裏返した。


そこには、鉛筆で一言だけ書かれていた。


銀は、黄金を忘れない。


セリナはしばらく、その文字を見ていた。


それから、写真を封筒に戻した。


「この資料、借りられる?」


「持ち出しは禁止だ」


「コピーは?」


「好きにしろ」


セリナはスマートフォンで手紙と写真を撮影した。


撮り終えると、写真をもう一度だけ見た。


銀色の二挺。


彼女の銀花と、よく似ている。


いや、よく似ているどころではない。


同じものに見えた。


倉庫を出ると、風はさらに強くなっていた。


セリナは歩きながら、スマートフォンの画面を見た。


写真を拡大する。


彫刻の細部を確認する。


薔薇の花弁。天使の翼。グリップの木目。


どれも、銀花と同じだった。


彼女は立ち止まった。


「……そんなわけないでしょう」


誰に向かって言ったのか、自分でもわからなかった。


その夜、セリナは帰宅すると、すぐに銀花を取り出した。


二挺をテーブルに並べる。


写真を横に置く。


画面を拡大し、実物と見比べる。


完全に一致しているように見えた。


セリナは写真の細部を何度も確認した。


そして、あることに気づいた。


写真の中の左の銃。


スライドの王冠の先端は、欠けていなかった。


右の銃の王冠も、完全な形をしていた。


セリナは銀花を持ち上げた。


右の銃。欠けた王冠。


左の銃。完全な王冠。


写真の中では、両方とも完全な王冠だった。


それだけなら、古い写真の解像度の問題かもしれない。


彼女はそう考えた。


そう考えることにした。


だが、スマートフォンの画面を閉じようとしたとき、写真の背景に、もう一つの箱が写っているのに気づいた。


小さな木箱。


蓋には、王冠と二頭の獅子。


そして、その脇に、金色の拳銃らしきものが一本だけ置かれていた。


セリナは画面を拡大した。


金色の銃。


写真は不鮮明で、細部まではわからない。


それでも、彼女は目を離せなかった。


金色の表面。薔薇の彫刻。王冠の輪郭。


美しかった。


銀花とは違う美しさだった。


冷たい銀の花ではない。


燃えるような黄金の花。


セリナは、気づかないうちに身を乗り出していた。


「……実物を見てみたいわね」


言ってから、彼女は口を閉じた。


部屋は静かだった。


銀花が二挺、テーブルの上に並んでいる。


セリナはしばらく動かなかった。


やがて、スマートフォンを伏せた。


「調査のためよ」


誰に言い訳しているのかは、わからなかった。


彼女は銀花を手に取り、柔らかな布で磨き始めた。


いつもと同じように。


丁寧に。


愛おしそうに。


ただ、その夜だけは、磨き終えたあとも、なかなか銃をしまうことができなかった。


窓の外で、風が鳴っていた。


テーブルの端に伏せられたスマートフォンは、何も映していなかった。


だが、黒い画面には、セリナの顔が映っていた。


彼女はその顔を見ていなかった。

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