第七章 銀の記憶
その男は、喫茶店の隅に座っていた。
窓際の席。古びた革の鞄。冷めたコーヒー。
年齢は六十を過ぎているように見えた。痩せていて、背筋が伸びている。髪は白く、右手の人差し指だけが不自然に曲がっていた。
セリナが店に入ると、男は顔を上げた。
「セリナさんですね」
彼女は足を止めた。
「どちらさま?」
「あなたのお父上を、少しだけ存じ上げていました」
「父の知り合い?」
「そう言っても差し支えないでしょう」
「差し支えがあるから、そんな言い方をするんじゃないの?」
男は答えず、向かいの席を示した。
セリナは座らなかった。
「用件は?」
「あなたが、二挺の拳銃を持っていると聞きました」
「誰から?」
「それをお話しする前に、一つだけ確認させてください」
男は鞄から古い写真を取り出した。
白黒写真だった。
石造りの建物の前に、二人の男が立っている。片方は日本人の軍服姿。もう片方は、黒い制服を着ていた。
写真の中央には、小さな箱が置かれていた。
その箱の蓋には、王冠と二頭の獅子が刻まれている。
セリナは写真を見た。
「また、それ?」
男の目が動いた。
「ご存じなのですか」
「似たような写真を見たわ。ずいぶん昔の銃の話と一緒にね」
「その銃は、今どこに?」
「知らない」
「本当に?」
セリナは男を見た。
「あなた、私の話を聞きに来たの? それとも、私が何を知っているか試しに来たの?」
男は写真を鞄にしまった。
「失礼しました」
「謝るなら、コーヒーくらい奢ってくれる?」
男は少しだけ笑った。
「もちろんです」
セリナはようやく席についた。
注文を済ませると、男は鞄からもう一枚、写真を取り出した。
今度の写真には、二挺の拳銃が写っていた。
一挺は金色。もう一挺も金色。
装飾は細かく、銃身の側面には薔薇と王冠が刻まれている。
セリナは写真を見つめた。
「綺麗ね」
男は、意外そうな顔をした。
「それだけですか」
「ほかに何を言えばいいの?」
「その二挺について、何か聞いていませんか」
「聞いたわ。王を殺せるのは、王と同じものを持つ者だけだとか」
男の顔から、表情が消えた。
「誰がそんなことを?」
「さあ。古い人間は、古い話が好きなのよ」
男は写真を裏返した。
裏には、鉛筆で短く記されていた。
片方を失えば、もう片方が探しに来る。
セリナはそれを読んだ。
「ずいぶん寂しい銃ね」
「寂しい?」
「二挺で一組なんでしょう? 片方がなくなったら、もう片方が探しに来る。人間みたい」
男は写真をしまった。
「あなたの銀の拳銃も、二挺で一組ですか」
「そうよ」
「離したことは?」
「何度もあるわ」
「それで?」
「何も起きなかった」
セリナはコーヒーを飲んだ。
男は何かを言いかけて、やめた。
その沈黙を、セリナは気に入った。
余計なことを話さない人間は嫌いではない。
「ところで」
彼女はカップを置いた。
「あなたの名前を聞いていなかったわ」
男は少し考えた。
「名前は、今は必要ないでしょう」
「そう」
セリナはあっさり頷いた。
「じゃあ、私も聞かなかったことにする」
男は、初めて本当に驚いた顔をした。
「あなたは、怖くないのですか」
「何が?」
「その銃にまつわる話が」
セリナは自分の鞄に目を向けた。
中には銀花が入っている。
「怖いものなら、ほかにいくらでもあるわ」
「例えば?」
「好きなものを失うこと」
男は黙った。
セリナは続けた。
「でも、失うのが怖いからって、好きになるのをやめるほど器用じゃないの」
店の窓を、風が軽く叩いた。
男は長いあいだ彼女を見ていた。
やがて、鞄から小さな紙片を取り出し、テーブルに置いた。
そこには住所が一つだけ書かれていた。
「ここへ行けば、あなたの曽祖父について何か見つかるかもしれません」
セリナは紙片を見た。
「何があるの?」
「古い記録です」
「それだけ?」
「それだけです」
セリナは紙片を手に取った。
「ありがとう。コーヒー、ごちそうさま」
彼女は立ち上がった。
男は引き止めなかった。
店を出ると、空は曇っていた。
セリナは紙片をポケットに入れ、歩き出した。
その夜。
部屋に戻った彼女は、銀花をテーブルに並べた。
右の銃。左の銃。
二挺の間に、昨夜の写真を置く。
金色の銃が二挺。
銀色の銃が二挺。
王冠と二頭の獅子。
セリナは写真を見比べた。
金色の銃に刻まれた薔薇は、棘が多かった。
銀花の薔薇は、静かに咲いていた。
「あなたたちは、ずいぶん違うのね」
彼女は右の銀花を持ち上げた。
その瞬間、部屋の明かりが一度だけ瞬いた。
セリナは顔を上げた。
明かりはすぐに戻った。
何も起きていない。
彼女は銃に目を戻した。
スライドの小さな王冠の印。
その先端が、欠けている。
いつからだっただろう。
セリナは指でそこをなぞった。
金属の表面は滑らかだった。
欠けた部分に、傷はない。
まるで、最初からそう刻まれていたかのように。
彼女は銃を置いた。
「……まあ、いいわ」
そして、いつものように布を手に取った。
窓の外で、遠くの電車が通り過ぎた。
テーブルの上には、二挺の銀花が並んでいる。
写真の中の黄金銃は、どこかへ消えていた。




