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第六章 名前のない男

翌朝、雨は上がっていた。


セリナはテーブルの上に、昨夜の写真を置いた。


一九三八年、ベルリン。


軍服姿の日本人男性と、金髪の女性。


彼女はコーヒーを飲みながら、写真を眺めていた。特に理由はない。捨てるには気になり、しまうには少し惜しかった。


男の顔は、やはり自分に似ている気がした。


親子や祖父母の顔が似ることはある。何世代も離れれば、似ている部分も似ていない部分もあるだろう。


それだけの話だ。


セリナはスマートフォンを手に取った。


写真の裏に記されていた「ベルリン、一九三八年」という文字を検索する。古い軍人の写真、外交記録、当時の日本人滞在者。画面には無数の情報が並んだが、どれも彼女の写真とは関係がなかった。


検索語を変える。


日本軍。駐在武官。ベルリン。


やがて、古い名簿の画像が見つかった。


文字は小さく、読みづらい。セリナは画像を拡大した。


そこに、三浦という姓があった。


彼女は指を止めた。


名簿の人物が写真の男と同一人物かどうかはわからない。名前の一部は潰れており、所属も判然としなかった。


セリナは画像を保存した。


それからコーヒーを飲み干した。


「三浦、ね」


口に出してみても、何も感じなかった。


彼女は写真を封筒に戻し、引き出しにしまった。


その日の午後、セリナは銀花を携えて、再び骨董商の店を訪れた。


店の扉には、営業中とも休業中とも書かれていなかった。


ノックをすると、すぐに扉が開いた。


白髪の老人は、彼女の顔を見ると、驚いたような表情を浮かべた。


「おや。何か思い出しましたか」


「いいえ。忘れ物をした気がして」


「ここに?」


「たぶん」


老人は微笑んだ。


「それは困りましたね。忘れ物というものは、持ち主が何を忘れたのか思い出すまで、返しようがありません」


セリナは店内に入った。


薄暗い棚には、時計、銀器、古い写真立て、用途のわからない金属製の器具が並んでいる。


老人はカウンターの向こうに戻った。


「今日は何を?」


セリナは銀花を一挺だけ取り出した。


老人の目が、わずかに細くなった。


「それを見せに来たのですか」


「違うわ。これについて知っていることがあるなら、聞こうと思っただけ」


「知っていることは、ほとんどありませんよ」


「そうでしょうね」


セリナは銃をカウンターに置かなかった。手に持ったまま、老人を見ていた。


「一九三八年、ベルリン。日本人の軍人。ドイツ人の女性。二挺の拳銃」


老人の顔から、微笑みが消えた。


ほんの一瞬だった。


「どこでその話を?」


「古い写真が届いたの」


「誰から?」


「知らないわ」


老人は何も言わなかった。


店の奥で、時計が時を刻んでいた。


「あなたは、その写真を持っているのですか」


「ええ」


「見せてもらえますか」


「どうして?」


老人は答えなかった。


セリナは、彼をじっと見た。


「あなた、何か知っているのね」


「知っていることと、信じていることは違います」


「便利な言い方ね」


「商売柄、そういう言い方を覚えるのです」


セリナは鼻で笑った。


「じゃあ、信じていることを教えて」


老人はカウンターの下から、小さな紙箱を取り出した。


蓋を開ける。


中には、古い銀色のボタンが一つ入っていた。表面は黒ずみ、縁には細かな傷がある。


老人はボタンを指先で回した。


「昔、ある人物がここへ来ました。あなたと同じように、古いものを探していた」


「何を?」


「自分の家族が何者だったのかを」


「見つかったの?」


「ええ。けれど、その人は答えを気に入らなかった」


「なぜ?」


「答えが見つかったからです」


セリナは眉を上げた。


「意味がわからないわ」


「そうでしょうね」


老人はボタンを箱に戻した。


「人は、謎を解きたいのではありません。自分が信じたい物語を、謎の中に見つけたいのです」


セリナは銀花を見下ろした。


「私は別に、物語なんていらない」


「それなら、幸いです」


老人は静かに言った。


「物語を必要としない人は、時に、物語に最も近い場所へ行ってしまう」


しばらく、二人は黙っていた。


やがてセリナは銃をしまった。


「あなた、話が長いわ」


「申し訳ありません」


「でも、嫌いじゃない」


彼女は扉へ向かった。


その直前、老人が声をかけた。


「お嬢さん」


セリナは振り返った。


「その銃を、誰から受け継いだのですか」


「家族よ」


「どなたから?」


「さあ。父だったか、その前だったか。そんなこと、いちいち覚えていないわ」


老人は、彼女の顔を見つめていた。


「そうですか」


「何か問題でも?」


「いいえ」


老人は微笑んだ。


「大切にしてあげてください」


「言われなくても」


セリナは店を出た。


扉が閉まる。


老人はしばらく、その場に立っていた。


やがてカウンターの下から、古い帳面を取り出す。


表紙には何も書かれていない。


彼はページをめくった。


黄ばんだ紙の上に、何十年も前の筆跡が並んでいる。


名前。日付。品物。受け渡しの記録。


あるページで、老人の手が止まった。


そこには、二挺の拳銃について記されていた。


製造番号は、黒いインクで塗りつぶされていた。


所有者の欄は空白。


その下に、別の筆跡で短い一文が書き加えられていた。


二挺は、同じ場所に戻る。


老人は帳面を閉じた。


窓の外では、雲の切れ間から陽が差していた。


カウンターの上には、銀色のボタンが残されていた。


老人はそれを箱にしまおうとした。


指先が止まる。


ボタンの表面に、細い線が浮かび上がっていた。


王冠。


二頭の獅子。


老人は目を伏せた。


そして、何も見なかったかのように蓋を閉じた。

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