第五章 ベルリンの贈り物
雨は、夜になっても止まなかった。
セリナは部屋の明かりをつけず、窓際に座っていた。
テーブルの上には、銀花が二挺。
白い街灯の光が、銀色のスライドを細く照らしている。彫刻された薔薇。翼のある天使と、翼を失った天使。二挺を並べればひとつにつながる、あの奇妙な図柄。
骨董商の老人が見せた古い写真を、セリナはもう忘れかけていた。
王冠。二頭の獅子。黄金の銃。
そんなものは、どうでもよかった。
彼女は右の銃を手に取った。
「今日は、こっちの気分ね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
銃は答えない。
もちろんだ。
それでいい。
セリナは柔らかな布で、グリップの縁をそっと拭いた。琥珀色の木目には、長い年月のあいだに生まれた細かな傷がある。新品のように磨き上げるつもりはなかった。それもまた、この銃が生きてきた時間の一部だからだ。
そのとき、玄関の郵便受けが音を立てた。
セリナは顔を上げた。
こんな時間に郵便?
彼女はしばらく動かなかった。
もう一度、音がした。
今度は、何かが床に落ちる音だった。
セリナは立ち上がり、玄関へ向かった。扉を開ける前に、覗き穴から廊下を確認する。
誰もいない。
扉を開ける。
廊下の床に、小さな封筒が一通落ちていた。
差出人の名前はない。宛名もない。
ただ、封筒の表に、鉛筆で一行だけ書かれていた。
銀花を、誰から受け継いだのか。
セリナは封筒を拾った。
「……趣味の悪い手紙ね」
部屋に戻り、封を切る。
中には古い写真が一枚と、薄い便箋が入っていた。
写真には、軍服姿の日本人男性と、淡い色のワンピースを着た金髪の女性が写っていた。
背景には、石造りの建物。窓の形も、道の舗装も、日本ではない。
写真の裏に、ドイツ語で日付が記されていた。
一九三八年。
その下には、日本語で短く書かれていた。
ベルリンにて。
セリナは写真を裏返し、もう一度表を見た。
男は、どこか自分に似ていた。
目元だろうか。頬の線だろうか。
単に、そう思いたいだけかもしれない。
女性はカメラを見ていなかった。隣に立つ男のほうを見ている。男もまた、カメラではなく、彼女を見ていた。
二人のあいだには、写真に写るにはあまりにも私的な沈黙があった。
セリナは便箋を開いた。
そこには、古い日本語でこう書かれていた。
『二挺の拳銃を受け取った。
贈り主は、これを友情の証だと言った。
私は礼を述べた。
しかし、あの男が何を知っていたのか、最後までわからなかった。』
それだけだった。
署名はない。
セリナは写真と便箋を並べた。
一九三八年のベルリン。
軍服姿の日本人。
二挺の拳銃。
そして、あの骨董商の写真にあった王冠の印。
どれも、銀花につながっているように見えた。
見えるだけだ。
彼女は便箋を置き、二挺の銃に目を向けた。
「あなたたち、ずいぶん昔から面倒な連中だったのね」
返事はない。
セリナは笑った。
「まあ、いいわ。今さら身の上話をされても困るもの」
写真を引き出しにしまおうとして、手が止まった。
写真の端に、小さな傷があった。
いや、傷ではない。
紙の表面に、針の先で刻み込まれたような模様がある。
王冠。
その下に、二頭の獅子。
セリナは写真を銀花の横へ置いた。
模様を見比べる。
そして、右の銃を少しだけ傾けた。
銀色のスライドに刻まれた小さな印が、写真の模様と重なった。
完全に同じではない。
王冠の先端が一本、欠けている。
セリナは数秒間、それを見つめた。
それから、写真を伏せた。
「……趣味が悪いわね、本当に」
彼女は銃を手に取り、いつものように布で磨き始めた。
窓の外では、雨が降り続いている。
引き出しの中で、古い写真が一枚、暗闇に沈んでいた。
その裏側に書かれた日付は、一九三八年。
だが、写真の紙質を調べれば、もっと新しい時代のものだとわかったかもしれない。
あるいは、もっと古いものだったかもしれない。
誰も調べなかった。
セリナは銀花を磨いていた。
二挺の銃は、何も語らなかった。




