第4章 銀花の葬列
雨は、夜明けまで降り続いていた。
セリナは窓辺に座り、二挺のブローニング・ハイパワーを並べていた。
左に、枯れた薔薇と翼のない天使。
右に、咲き誇る薔薇と翼のある天使。
二挺を少しずつ近づけると、彫刻の線がつながった。枯れた花の茎が、咲いた花の根元へ伸びている。天使たちは互いに背を向けているようにも、同じ場所を見つめているようにも見えた。
セリナは柔らかな布を動かした。
「こんなに真っ黒に汚しちゃって」
返事はない。
もちろん、返事など期待していなかった。
彼女は銃を手入れする時間が好きだった。撃つために必要だからではない。撃ったあとの汚れを落とし、細部を確かめ、金属の表面に光が戻ってくるのを見るのが好きだった。
人間は、何かを愛するとき、その対象に意味を与える。
彼女にとって、この二挺は武器以上のものだった。
それが健全な愛情なのかどうか、セリナは考えたことがなかった。
テーブルの端に、昨夜アレクセイから渡された小さな紙片が置かれていた。
そこには住所と、ひとつの名前が記されていた。
古物商。
それだけだった。
「親切な人ね」
セリナはつぶやいた。
アレクセイが何を知っているのか、まだ分からない。三年前に部隊を壊滅させた人間が、いまさら彼女に真実を語る理由も分からなかった。
だが、あの男は最後にこう言った。
――お前の銃について、知っている人間がいる。
その言葉だけが、頭に残っていた。
セリナは二挺をケースに収めた。
枯れた薔薇と、咲いた薔薇。
蓋を閉じる。
そして、出かけた。
*
古物商の店は、街の古い地区にあった。
看板はなく、曇った窓ガラスの向こうには、時計、銀食器、古い懐中時計、額縁に入った肖像画が並んでいた。
店内には、古い木と金属の匂いがした。
カウンターの向こうに、白髪の男が座っていた。
年齢は分からない。老人に見えたが、顔には年齢を決める手掛かりが乏しかった。深い皺も、若さもない。ただ、長い時間を過ごした人間に特有の、妙に静かな表情があった。
「何をお探しですか」
男が尋ねた。
「銃について聞きたいの」
「銃ですか」
「ブローニング・ハイパワー」
男は、初めて少しだけ表情を変えた。
「ずいぶん古い銃ですね」
「古いものが好きなの」
「そうですか」
「特に、彫刻のあるものが」
男は答えなかった。
セリナはケースをカウンターに置いた。蓋を開き、二挺を見せる。
男は長い間、何も言わなかった。
その視線は銃全体を眺めているのではなかった。銀色の表面でも、木製のグリップでもなく、彫刻の細部を追っていた。
枯れた薔薇。
翼のない天使。
咲いた薔薇。
翼のある天使。
「誰が彫ったのですか」
男は尋ねた。
「知らないわ」
「あなたの銃なのに?」
「私の銃だからといって、何もかも知っているわけじゃないでしょう」
男はセリナを見た。
それから、かすかに笑った。
「そのとおりです」
彼は引き出しから、古い写真を一枚取り出した。
写真には、黒ずんだ金属製の箱が写っていた。蓋には複雑な模様が刻まれている。中央には王冠。その両側に、向かい合う二頭の獅子。
セリナは写真を手に取った。
「これは?」
「昔、ある収集家が所有していた品です」
「中身は?」
「黄金の拳銃が二挺」
セリナは顔を上げた。
「二挺?」
「ええ」
「ブローニング・ハイパワー?」
「そう伝えられています」
「誰が作ったの?」
「分かりません」
「誰のために?」
「それも分かりません」
セリナは写真を置いた。
「あなた、何も知らないのね」
「ええ。何も」
男は穏やかに答えた。
その声に、皮肉はなかった。
「ただ、ひとつだけ」
男は写真を裏返した。
裏面には、鉛筆で短い文章が書かれていた。文字は古く、ところどころ擦れていた。
セリナは読み上げた。
「王を殺せるのは、王と同じものを持つ者だけ……」
「古い言い伝えです」
「誰の?」
「さあ」
「あなた、さっきから『分からない』と『さあ』しか言っていないわね」
「年を取ると、分からないことが増えるものです」
セリナは男の顔を見た。
その顔は、老人のものに見えた。
しかし、なぜか年齢を尋ねる気にはならなかった。
「その黄金銃は、今どこにあるの?」
「一挺は、かつて北アフリカにありました」
「もう一挺は?」
男は写真を静かに引き寄せた。
「記録がありません」
「失われたの?」
「そうかもしれません」
「誰かが持っているのかもしれない?」
「そうかもしれません」
セリナは笑った。
「便利な答えね」
「真実というものは、たいてい不便なものです」
男は写真を引き出しに戻した。
その動作は、あまりにも自然だった。
セリナはケースの蓋を閉じた。
「最後にひとつだけ聞かせて」
「どうぞ」
「あなたは、誰がこの彫刻を作ったと思う?」
男はしばらく考えていた。
そして、答えた。
「人間でしょう」
セリナは眉を上げた。
「ずいぶん当たり前の答えね」
「そうでしょうか」
男はカウンターの向こうで、静かに微笑んだ。
「人間にできることを、人間以外のものの仕業だと考えたくなることは、よくありますから」
セリナは何も言わなかった。
店を出ると、雨は止んでいた。
*
帰り道、セリナはショーウインドウに映る自分の姿を見た。
黒いコート。
無表情な顔。
肩に掛けたケース。
そして、その中にある二挺の銀色の拳銃。
彼女は立ち止まった。
ケースを開けることはしなかった。ただ、そこに二挺があることを確かめるように、手を添えた。
黄金銃。
二挺。
王と、王を殺す者。
そんな話を信じているわけではない。
彼女は神も、奇跡も、呪いも信じていなかった。
銃は金属と木でできている。彫刻は人間の手によって刻まれたものだ。歴史の中に謎が残るのは、記録が失われたり、誰かが嘘をついたりするからだ。
それだけのことだ。
セリナは歩き始めた。
そのとき、ふと、古物商の男の言葉を思い出した。
――人間にできることを、人間以外のものの仕業だと考えたくなることは、よくありますから。
彼女は振り返った。
通りには人影がなかった。
遠くで車が走り去る音がした。
セリナはしばらくその場に立っていたが、やがて小さく肩をすくめた。
「考えすぎね」
*
その夜。
セリナは再び、銀花をテーブルに並べた。
布で銃身を磨く。金属の表面に、ランプの光が細く伸びた。
彼女は彫刻を眺めた。
枯れた薔薇。
翼のない天使。
咲いた薔薇。
翼のある天使。
そのとき、彼女は気づいた。
二挺を並べたとき、天使たちの視線が向かう先。
彫刻の線が交わる、ほんの小さな場所。
そこに、見覚えのない印があった。
いや、見覚えがないのではない。
どこかで見たことがある。
セリナは記憶を探った。
古物商の写真。
王冠。
二頭の獅子。
黄金銃。
彼女は二挺を近づけ、角度を変えた。
印は、確かにそこにあった。
だが、それが何を意味するのかは分からない。
いつから刻まれていたのかも、分からない。
彼女は長い間、その小さな印を見つめていた。
やがて、布を手に取った。
「まあ、いいわ」
セリナは銀花を磨き続けた。
銃は何も答えなかった。
窓の外では、雨がまた降り始めていた。




