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第34章 銀花、帰還

最初に動いたのは、父だった。


「セリナ。帰れ」


娘に向けた声ではなかった。命令する人間の声だった。


母が黄金のブローニング・ハイパワーを持ったまま、夫を横目で見た。


「あら。ずいぶん優しいのね。あなたが女の子を逃がしてあげるなんて」


「黙れ」


「はいはい」


母は肩をすくめた。


その仕草は、場違いなほど軽かった。


古い洋館の広間には、四つの影があった。父と母。そして白髪の男、三浦。壁際には、いつの間にか武装した男たちが数人、入口を塞ぐように立っていた。


その誰もが、黄金の銃を見ていた。


人間を見ているのではない。


銃を見ている。


セリナは、それが気に入らなかった。


「セリナ」


今度は母が呼んだ。


いつもの明るい声だった。


「あなたは帰りなさい。ここから先は、大人の時間よ」


「お母さん、私だって大人よ」


「知ってるわ。だから帰ってほしいの」


母は笑った。


その笑顔を、セリナは知っていた。


子供のころ、母は叱るときにも笑った。何かを隠しているときにも笑った。そして、本当に悲しいときには、もっと明るく笑った。


今の笑顔がどれなのか、セリナには分からなかった。


父が一歩、前へ出た。


「お前は何も持っていない。ここに残る理由はない」


「そうね」


「なら帰れ」


「お父さんも、私を逃がしたいの?」


「質問に答える必要はない」


「そう」


セリナは二人を見た。


母の手には、黄金のブローニング・ハイパワー。


父の手にも、同じ黄金の銃。


金色の金属は、古い照明の下で鈍く光っていた。美しい銃だった。細部まで手をかけられた仕上げ。磨き込まれた曲線。長い時間を経ても失われない、工業製品としての完成度。


セリナには、その美しさが分かった。


だからこそ、嫌だった。


この銃を手にした人間は、いつの間にか自分まで特別な存在になったと思い始める。


父は国を変えようとした。


母は誰かを殺した。


そして二人は今、互いの銃口を向け合っている。


銃は何も命じていない。


命じているのは、いつだって人間だ。


「分かったわ」


セリナは言った。


「帰る」


母の笑顔が、一瞬だけ消えた。


父は何も言わなかった。


セリナは踵を返し、玄関へ向かった。


誰も彼女を止めなかった。


外へ出ると、雨が降っていた。


細い雨だった。


車まで歩く間、セリナは振り返らなかった。


背後の洋館には、まだ灯りがともっていた。


あの中で、父と母は黄金の銃を持っている。


あの中で、三浦は何かを知っている。


あの中で、誰かが誰かを殺すかもしれない。


セリナは車のドアを開けた。


座席に腰を下ろし、エンジンをかける。


ワイパーが動いた。


雨に濡れたフロントガラスの向こうで、洋館の灯りがぼやけていた。


セリナはハンドルに手を置いたまま、しばらく動かなかった。


逃げる。


それは簡単だった。


このまま車を走らせればいい。父の計画も、母の過去も、黄金の銃も、四人目の男も、すべて自分の知らない世界の出来事にできる。


銀花だけを連れて、どこか遠くへ行けばいい。


それで終わりだ。


セリナは小さく息を吐いた。


「……馬鹿みたい」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


彼女はエンジンを切った。


車を降り、後部へ回る。


トランクを開けた。


そこには、黒いケースがあった。


セリナはケースの留め金に指をかけた。


ほんの少し、ためらった。


彼女が銀花を愛しているのは、強いからではない。誰かを倒せるからでもない。


美しいからだ。


その美しさを、誰かを殺すためだけの道具にしたくはなかった。


けれど、銃を持たないことと、銃を憎むことは違う。


そして銃を愛することと、銃に従うことも違う。


セリナはケースを開いた。


銀色のブローニング・ハイパワーが二挺、並んでいた。


一挺には、翼のない天使と枯れた薔薇。


もう一挺には、翼を持つ天使と咲いた薔薇。


二つの彫刻は、それぞれ独立した意匠でありながら、並べるとひとつの絵になる。


銀花。


セリナは、その名を口にしなかった。


ただ、しばらく眺めていた。


金色の銃を見たときも、美しいと思った。


だが、あれは自分のものではなかった。


銀花は違う。


この二挺と過ごした時間は、誰かが作った伝説とは関係がない。父の野望とも、母の罪とも、三浦の謎とも関係がない。


少なくとも、セリナはそう信じたかった。


彼女はケースを閉じた。


そして、再び運転席に乗り込んだ。


エンジンがかかる。


車はゆっくりと動き出した。


洋館から遠ざかる。


数十メートル進んだところで、セリナはハンドルを切った。


道路の先には、街の灯りがあった。


その反対側には、洋館があった。


彼女は一度だけ、バックミラーを見た。


「ごめんね」


誰に謝ったのかは、やはり分からなかった。


アクセルを踏んだ。


車は雨の中を走り、来た道を戻っていった。


*


洋館では、父と母が向かい合っていた。


黄金のブローニング・ハイパワーが二挺。


互いの銃口は、相手を捉えている。


「逃がしたな」


父が言った。


「あなたもね」


「娘を巻き込むつもりはなかった」


「本当かしら」


母は首を傾げた。


「あなた、何でも計画に入れる人でしょう? 娘のことだって、例外じゃなかったんじゃない?」


父の顔は動かなかった。


「今はその話をしている場合ではない」


「そうね。じゃあ、王様の話に戻りましょうか」


母の声は、楽しげだった。


「どっちが王に相応しいか、確かめるんでしょう?」


「お前は、何も理解していない」


「そうかしら。私はあなたより、ずっとよく理解していると思うけど」


母は黄金の銃をわずかに傾けた。


金色の表面に、母自身の顔が映っていた。


「王になりたい人間は、王になれば何でもできると思っている。でもね、あなた」


彼女は笑った。


「王になったあと、何をするかなんて、誰も教えてくれないのよ」


「国を立て直す」


「ほらね」


母はため息をついた。


「あなたは、まだ自分が正しいと思ってる」


「正しいかどうかは、歴史が決める」


「歴史って便利な言葉ね。死んだ人間は、もう文句を言えないもの」


父の目が細くなった。


三浦は、広間の片隅で二人を見ていた。


その表情からは、何も読み取れない。


「お二人とも」


彼が口を開いた。


「そろそろ、お決めになった方がよろしい」


「何をだ」


父が尋ねた。


「ご自分が、何を守ろうとしているのかを」


母が笑った。


「あら。あなた、まだいたの?」


「ええ」


「帰ってもいいのよ」


「そうしたいところですが」


三浦は玄関の方へ目を向けた。


「どうやら、そうもいかないようです」


外の雨音が強くなった。


玄関の向こうで、足音がした。


一人ではない。


複数の人間が、濡れた地面を踏んでいる。


父は黄金の銃を下ろさなかった。


母も同じだった。


やがて、扉の向こうから声がした。


「中にいる方々に申し上げます」


落ち着いた男の声だった。


「我々は、金花の確認と回収に来ました」


母が吹き出した。


「回収ですって」


彼女は夫に視線を向けた。


「聞いた? あなたの計画、ずいぶん人気があるみたい」


「黙れ」


「はいはい」


母は扉を見た。


「ねえ、あなたたち」


声を張り上げる。


「回収って、誰の命令?」


返事はなかった。


代わりに、扉の向こうで金属音がした。


武装集団の一人が、何かを構え直したらしい。


父の表情が変わった。


自衛官として、彼はその音の意味を知っていた。


これは交渉ではない。


少なくとも、相手は交渉をするための準備をしていない。


「三浦」


父が呼んだ。


「あなたは、何者だ」


白髪の男は、少し考えた。


「さあ」


「ふざけるな」


「私にも、分からないことはあります」


三浦は静かに言った。


「ただ、ひとつだけ分かっていることがあります」


「何だ」


「この四挺が、誰の手に渡るか。それを決めるのは、銃ではありません」


母は黄金の銃を握り直した。


「それ、さっきも聞いたわ」


「ええ」


「じゃあ、もう一度聞くけど」


彼女の笑顔が消えた。


「この銃を欲しがっている連中は、何をするつもりなの?」


三浦は答えなかった。


その沈黙が、答えのように聞こえた。


*


車が洋館の前に戻ってきたのは、それから数分後だった。


ヘッドライトが雨の中を切り裂く。


武装集団の一人が、窓の向こうを振り返った。


「車です」


「確認しろ」


別の男が言った。


車は玄関前で止まった。


エンジンが切れる。


ドアが開いた。


セリナが降りてきた。


両手は空だった。


男たちは彼女を見た。


そして、互いに目を合わせた。


「戻ってきたのか」


誰かが呟いた。


セリナは答えなかった。


車の後部へ回り、トランクを開けた。


黒いケースを取り出す。


ケースを持つ彼女の手は、震えていなかった。


彼女は玄関へ向かった。


扉の前に立つ男が道を塞いだ。


「止まれ」


セリナは足を止めた。


「中に用があるの」


「ここから先は通せない」


「そう」


セリナは男の顔を見た。


「じゃあ、どいて」


「命令だ」


「誰の?」


男は答えなかった。


セリナは、ほんの少しだけ笑った。


「そう。あなたも知らないのね」


男が何かを言いかけた、そのとき。


洋館の中から母の声が聞こえた。


「セリナ?」


驚きと、安堵と、それからほんの少しの怒りが混ざった声だった。


セリナは扉を見た。


「ただいま」


彼女は言った。


それから、黒いケースを持ち直した。


「忘れ物を取りに来たの」


扉の向こうで、誰かが息を呑んだ。


セリナはケースの留め金に指をかけた。


まだ開けない。


まだ、銃声はない。


だが、もう誰も、彼女を逃がそうとはしなかった。


そしてセリナも、もう逃げるつもりはなかった。


銀花が、帰ってきた。

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