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第33章 最後の客

玄関の扉が開いた。


廊下に、濡れた靴音が響く。


ひとり。


ゆっくりと、こちらへ向かってくる。


父は窓から目を離した。母はグラスを持ち上げた。セリナだけが、扉の方を見つめていた。


やがて、男が部屋に入ってきた。


黒いコート。白い髪。年齢の判断しにくい顔。


セリナは見覚えがあった。


古い銃の雑誌を扱う店の主人ではない。


あの男は、もっと人懐こい。古いカタログを見せるときには、必ず余計な話を始める。銃の話になると時間を忘れ、客が帰ろうとしても引き止める。


この男は違った。


表情がないのではない。


表情を見せる必要がないと思っている顔だった。


「お久しぶりです」


男は父に向かって言った。


父は答えなかった。


「あなたが来るとは思わなかった」


「私も、こんなに長く待つとは思いませんでした」


男はテーブルに目を落とした。


木箱。


金花。


その黄金色を見た瞬間、男の目に初めて感情らしいものが浮かんだ。


懐かしさ。


あるいは、疲労。


「まだ、そこにあったんですね」


母が笑った。


「あなたが取りに来なかったからよ」


「取りに来るべきではなかった」


「でも、来た」


「ええ」


男は椅子を引かなかった。


立ったまま、金花を見つめている。


セリナは尋ねた。


「あなたは誰?」


男は彼女を見た。


「あなたのお父さんとお母さんが、長いこと忘れたふりをしていた人間です」


「名前は?」


「名前に意味があると思いますか?」


「あるわ。少なくとも、あなたが何者なのか知るためには」


男は少し考えた。


「では、三浦と呼んでください」


父の表情が変わった。


母の笑顔も消えた。


セリナは、その反応を見逃さなかった。


「三浦……曽祖父と同じ名字?」


「そうです」


「親戚なの?」


「その質問には、答えられません」


「また、それ?」


セリナは呆れたように言った。


「この家族は、答えられないことばかりね」


男は、初めて笑った。


「その通りです」


母がグラスを置いた。


「もういいでしょう。あなたが何者かなんて、今さら重要じゃないわ」


「重要ですよ」


男は母を見た。


「あなたが金花を持ち続けた理由を、私は知っています」


「そう」


「そして、ご主人が金花を欲しがる理由も」


父が口を開いた。


「余計なことを言うな」


「なぜです?」


男は静かに尋ねた。


「あなたは、すべてを知っているつもりだった。家族のことも、銃のことも、歴史のことも。だからこそ、ここまで来たのでしょう?」


父は答えなかった。


男は木箱に近づいた。


金花には触れない。


ただ、二挺を見下ろした。


「一九三八年。ベルリン」


セリナは息を止めた。


「あなた方の曽祖父母は、四挺のブローニング・ハイパワーを受け取りました。銀の二挺と、黄金の二挺。少なくとも、そう記録されています」


「誰から?」


セリナが尋ねた。


「それは、わかりません」


「あなたは知っているんでしょう?」


「知っていたとしても、証明できません」


男は写真を手に取った。


四挺の拳銃が写った、あの古い写真。


「この写真には、四挺が写っています。しかし、同じ銃が現在まで残っていると証明する記録はない。途中で交換された可能性も、修復された可能性もある。写真の説明が誤っている可能性さえある」


「じゃあ、何が本当なの?」


「銃が存在したことです」


男は写真をテーブルに戻した。


「そして、それを欲しがった人間がいたことです」


母が、小さく笑った。


「ずいぶんつまらない結論ね」


「歴史というものは、たいていつまらないものです。人間が勝手に、そこへ意味を付け加える」


セリナは男を見た。


どこかで聞いた言葉だった。


物語を必要としない人間は、物語に最も近い場所へ行ってしまう。


古物商が言った言葉。


今になって、その意味が少しだけわかった気がした。


金花に呪いがあるわけではない。


銀花が金花を探しているわけでもない。


人間が銃を見つけ、銃に物語を与え、その物語を信じた人間が、次の人間を巻き込んでいく。


それだけなのかもしれない。


「では、あなたは何をしに来たの?」


セリナは尋ねた。


男は答えた。


「四挺を、同じ場所に戻すためです」


「なぜ?」


「戻らなければ、終わらないからです」


「何が?」


男は彼女を見つめた。


「あなた方の家族が、金花に与えた意味です」


*


父が、男の前に立った。


「金花を渡せ」


男は首を振った。


「あなたに渡すことはできません」


「私の家族の銃だ」


「家族の銃?」


男は、わずかに首を傾けた。


「それを証明できるのですか?」


「記録がある」


「記録には、所有者の欄が空白になっているものもあります」


「母さんが持っていた」


「ええ」


「ならば、私にも権利がある」


男はしばらく父を見ていた。


「あなたは、銃が欲しいのではありませんね」


「何?」


「金花を手に入れた人間が、特別な存在になれると信じている。だから、金花が必要なのです」


父の声が低くなった。


「私は、国家のために必要な決断をする」


「それは、あなたが決めることです」


男は淡々と言った。


「しかし、その決断を正当化するために、銃の伝説を利用する必要はありません」


父は拳を握った。


セリナは父の横顔を見ていた。


いつもの父だった。


感情を抑え、言葉を選び、最後には自分の判断を押し通す。


しかし今、父は自分の言葉を受け止めてもらえないことに、苛立っていた。


誰も、彼の物語を信じない。


母も。


セリナも。


そして、この見知らぬ男も。


「お前は、何者なんだ」


父が言った。


男は、静かに答えた。


「私は、あなたが王になるのを見届けるために来たのではありません」


そして、金花を見た。


「王が、王になれなかったことを見届けるために来たのです」


*


母が立ち上がった。


「もう十分よ」


彼女は木箱を持ち上げ、テーブルの端へ移した。


「昔の話は、もういい。誰が最初に持っていたとか、誰が誰を殺したとか。そんなことを調べたところで、死んだ人間は帰ってこない」


母はセリナを見た。


「それに、あなたには銀花がある」


「ええ」


「それで十分でしょう?」


セリナは少し考えた。


「……わからないわ」


母は笑った。


「正直でよろしい」


セリナは金花を見た。


欲しいと思った。


その気持ちは、消えていなかった。


黄金色の金属。繊細な彫刻。王冠と二頭の獅子。


銀花とは異なる美しさ。


自分の手で触れ、細部を確かめ、銀花と並べてみたい。


その欲望は、誰かに命令されたから生まれたものではない。


自分自身の中にある。


だからこそ、厄介だった。


「お母さん」


「なあに?」


「金花を、私に譲るつもりはある?」


母は、すぐには答えなかった。


やがて、微笑んだ。


「あるわよ」


父が母を見た。


男も、セリナを見た。


「ただし」


母は続けた。


「あなたが、本当に欲しいと思うならね」


セリナは首を振った。


「欲しいと思うことと、手に入れることは違うわ」


「そうね」


「それに、私は金花を手に入れたら、銀花を手放さなければならない気がする」


母の顔から、笑みが消えた。


「誰がそんなことを言ったの?」


「誰も」


セリナは金花を見つめた。


「でも、そういう物語になっているでしょう?」


男が、静かに言った。


「物語は、誰かが信じなければ成立しません」


セリナは彼を見た。


「あなたは信じていないの?」


「私は、銃を信じたりしません」


男は答えた。


「銃は、そこにあるだけです」


その言葉は、セリナの胸に深く残った。


銀花は、そこにあるだけ。


金花も、そこにあるだけ。


美しいかどうか。


誰を殺したか。


誰のものだったか。


その意味を決めているのは、銃ではない。


人間なのだ。


セリナは、ゆっくりとうなずいた。


「そうね」


そして、母を見た。


「だから、私は銀花を手放さない」


母は微笑んだ。


「それでいいのよ」


父は何も言わなかった。


*


そのとき、男が時計を見た。


「時間です」


「何の時間だ?」


父が尋ねた。


男は答えなかった。


代わりに、玄関の方を見た。


外で車のエンジン音がした。


一台。


続いて、もう一台。


母は窓の外を見た。


「まあ。お客様が多い夜ね」


セリナは、父の表情が変わるのを見た。


「誰を呼んだ?」


父は母に尋ねた。


母は肩をすくめた。


「私は誰も呼んでいないわ」


男は、静かに言った。


「私もです」


足音がした。


複数の人間が、玄関から廊下へ入ってくる。


父は上着の内ポケットに手を入れかけ、止めた。


母は木箱の蓋を閉じた。


セリナは、その場から動かなかった。


誰も銃を抜いていない。


誰も声を荒らげていない。


それでも、部屋の空気は変わっていた。


長いあいだ、写真の中に閉じ込められていた物語が、ようやく現実の人間たちを引き寄せたのだ。


扉の向こうから、男の声が聞こえた。


「金花を確認させていただきたい」


父は目を閉じた。


母は、かすかに笑った。


そしてセリナは、初めて理解した。


四挺のブローニング・ハイパワーを探していたのは、家族だけではなかった。


金花を欲しがる人間は、まだほかにもいる。


そして、その人間たちは、銃そのものではなく、銃がもたらすものを求めていた。


権力。


名声。


復讐。


あるいは、歴史に名を残すという幻想。


セリナは、木箱を見つめた。


金花は、閉じられた箱の中にある。


銀花は、ここにはない。


まだ、誰も撃っていない。


だが、もう誰も、この夜をなかったことにはできなかった。


母が、セリナの耳元で囁いた。


「ねえ、セリナ」


「何?」


「最後まで見届けるって、約束したでしょう?」


セリナは母を見た。


母は、いつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。


「だから、目を離しちゃ駄目よ」


扉が開いた。


そして、部屋に入ってきた人々の顔を見た瞬間、セリナは悟った。


今夜は、もう誰にも帰る場所がない。


四挺のブローニング・ハイパワーが、ついに同じ物語の中へ戻ってきた。

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