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第32章 四挺の夜

雨が降り始めたのは、午後十時を過ぎた頃だった。


セリナが母から指定された住所に着いたとき、街灯は一本おきに消えていた。


古い洋館だった。


都心から離れた住宅地の外れ。高い塀に囲まれ、庭木は伸び放題になっている。玄関の上には、かつて掲げられていた表札の跡だけが残っていた。


人の住んでいる気配はなかった。


それでも、二階の窓には明かりがともっていた。


セリナは呼び鈴を押した。


返事はない。


もう一度押そうとしたとき、扉が内側から開いた。


「遅かったわね」


母が立っていた。


赤い口紅。黒いドレス。首には、いつもの小さな十字架。


そして、右手にはグラスがあった。


「こんばんは、お母さん」


「こんばんは。傘は?」


「持ってない」


「あら。風邪をひいたらどうするの」


「あなたにうつすわ」


母は声を上げて笑った。


「素敵な親孝行ね。さあ、入りなさい」


洋館の中は、外見以上に古びていた。


壁紙はところどころ剥がれ、廊下には埃が積もっている。家具には白い布がかけられ、天井から下がるシャンデリアには、いくつもの電球が抜けていた。


だが、奥の部屋だけは違った。


そこには大きなテーブルがあり、壁際には古い木箱が並んでいた。


そして、テーブルの中央に、あの木箱が置かれていた。


王冠と二頭の獅子。


金花。


「座って」


母はテーブルの向こう側を指した。


セリナは椅子に腰を下ろした。


母はグラスを置き、木箱の蓋を開けた。


二挺の黄金色のブローニング・ハイパワーが、黒い布の上に横たわっていた。


一挺は、完全な王冠。


もう一挺は、先端の欠けた王冠。


金属の表面に、柔らかな光が流れる。


セリナは息をついた。


写真ではわからなかった細部が、そこにはあった。


彫刻の深さ。スライドの曲線。金色の濃淡。グリップの木目。


美しかった。


悔しいほどに。


「触ってみる?」


母が尋ねた。


セリナは首を振った。


「いいえ」


「どうして?」


「今日は、見るために来たんじゃないから」


母の笑顔が、ほんの少し変わった。


「そうね」


彼女は木箱の蓋を閉じなかった。


「じゃあ、話をしましょうか」


*


「お父さんは、今夜ここへ来る」


母はそう言った。


「どうしてわかるの?」


「私が呼んだから」


「お父さんも?」


「もちろん」


セリナは眉を寄せた。


「何をするつもりなの?」


「話し合いよ」


「あなたたちの話し合いって、いつも誰かが傷つくじゃない」


「そうねえ」


母はグラスを持ち上げた。


「でも今回は、ずいぶん前から準備してきたことだもの。そろそろ終わらせなくちゃ」


「何を?」


母は、木箱の中の金花を見た。


「この銃をめぐる物語」


セリナは黙っていた。


母は続けた。


「あなたの曽祖母は、金花を二挺とも持っていた。そう聞いているでしょう?」


「ええ」


「でも、彼女が最初に持っていたのは、四挺だったの」


セリナは母を見た。


「銀花も?」


「そうよ」


母は木箱の脇に置かれた、古い革張りのケースを開いた。


中には、古い書類と、黄ばんだ写真が入っていた。


母は写真を一枚、テーブルの上に置いた。


一九三八年、ベルリン。


曽祖父と曽祖母。


そして、四挺の拳銃が並んだ木箱。


銀色の二挺。


黄金色の二挺。


写真の隅には、見知らぬ若い男が立っていた。


「この男は誰なの?」


「わからないわ」


「曽祖母は知っていたんでしょう?」


「ええ。たぶんね」


母は写真の男を指先でなぞった。


「この男が四挺を持ってきたのかもしれない。曽祖母がどこかで手に入れたのかもしれない。あるいは、写真そのものが後から作られたものかもしれない」


「そんなこともわからないの?」


「わからないことは、わからないのよ」


母は笑った。


「あなたのお父さんは、それが我慢できなかった」


セリナは父の顔を思い浮かべた。


「だから、金花を欲しがった?」


「金花だけじゃないわ。あの人は、物語の結末が欲しかったのよ」


「結末?」


「四挺の銃がどこから来て、誰が持ち、誰が手放し、誰が殺したのか。それを全部つなげれば、最後に正しい人間が残ると思ったのね」


母は首を振った。


「そんな人間はいないのに」


セリナは写真を見つめた。


「お母さんは、金花で人を殺したの?」


母の笑顔が消えた。


「ええ」


静かな返事だった。


セリナは、息を止めた。


「誰を?」


「あなたの知らない人たちよ」


「何人?」


「数えたことはないわ」


セリナは椅子の背に身を預けた。


母は嘘をついていない。


そう感じた。


それが、かえって恐ろしかった。


「後悔している?」


母は少し考えた。


「後悔していない、と言えば嘘になるわ。でも、後悔しているからといって、過去が消えるわけじゃないでしょう?」


彼女は娘を見た。


「あなたが銀花を愛していることと、私が金花で人を殺したこと。その二つは、同時に存在できるのよ」


セリナは答えなかった。


母の言葉は、正しいのかもしれない。


だが、正しいことと、許せることは違う。


その違いを、今夜はじめて、母と娘は真正面から見つめていた。


*


玄関の扉が開く音がした。


足音が廊下を進んでくる。


父が現れた。


濃紺のスーツ。白いシャツ。雨に濡れた肩。


父は部屋に入ると、まずセリナを見た。


次に、テーブルの上の木箱を見た。


そして、金花を見た。


「久しぶりだな」


母は笑った。


「そうね。最後に二人でゆっくり話したのは、いつだったかしら」


「覚えていない」


「私は覚えているわ。あなたが、私に金花を渡せと言った夜よ」


父は答えなかった。


母は椅子を引いた。


「座って。せっかく娘もいるんだから、家族会議にしましょう」


父は座らなかった。


「金花を渡せ」


母は、困ったように笑った。


「挨拶の次は、それ?」


「冗談を言っている場合ではない」


「私はいつだって真面目よ」


母は木箱を、父の方へ少しだけ押した。


「ほら。見なさい。あなたがずっと欲しがっていたものよ」


父は二挺を見つめた。


セリナは、父の顔を観察していた。


欲望。


感動。


執着。


何かが表れると思っていた。


だが、父の表情はほとんど変わらなかった。


「これがあれば、すべてが変わる」


父は言った。


「何が変わるの?」


母が尋ねた。


「国が変わる」


「銃二挺で?」


「銃そのものの話ではない」


「じゃあ、何の話?」


父は母を見た。


「象徴だ」


母は笑った。


「そう。あなたはいつも、象徴が好きだったわね」


彼女は、テーブルの上の写真を父の前に滑らせた。


四挺の拳銃が写った写真だった。


「この銃が王を殺した。王を殺せるのは、同じ銃を持つ者だけだった。金花を持った人間は、やがて王になる。あるいは、王を殺す」


母は、楽しそうに言った。


「あなたは、その話を信じたいのね」


「信じているわけではない」


「じゃあ、どうして欲しがるの?」


父は答えなかった。


母は静かに続けた。


「あなたは、金花が自分を王にしてくれると思っている。けれど、本当は逆なのよ」


父の目が細くなった。


「何が言いたい?」


「あなたは、もう王になろうとしている。金花は、その気持ちに名前をつけてくれるだけ」


沈黙が落ちた。


雨音が、窓を叩いていた。


セリナは、両親を見つめた。


母は、父を恐れていない。


父も、母を説得しようとしていない。


二人は、ずっと昔から互いを知っていた。


そして、互いに何をする人間なのかも知っていた。


「金花を渡せ」


父が、もう一度言った。


母は首を振った。


「いやよ」


「ならば、私が持っていく」


「どうやって?」


父は、母を見た。


「お前は、私が何をしてきたか知っているはずだ」


「ええ。よく知っているわ」


母はグラスを置いた。


「だからこそ、渡せないのよ」


セリナは、父に向き直った。


「お父さん。金花がなくても、あなたは計画を進めるつもりなんでしょう?」


父は娘を見た。


「そうだ」


「なら、どうして必要なの?」


「必要だからだ」


「それじゃ、何も説明していない」


「お前に説明する義務はない」


セリナは、静かに笑った。


「そうね。私に説明する義務はないわ」


彼女は立ち上がった。


「でも、私はあなたの娘よ」


父は黙った。


「お母さんも、あなたの妻よ。それでも、あなたは二人を、自分の計画に必要なものとしてしか見ていない」


「違う」


「じゃあ、どうして私を呼んだの?」


父は答えなかった。


セリナは母を見た。


母は何も言わなかった。


その沈黙が、答えだった。


セリナは父に向き直った。


「私は、あなたの味方にはならない」


父の顔から、すべての表情が消えた。


「……そうか」


その声は、驚くほど穏やかだった。


「ならば、仕方がない」


父は鞄を開いた。


中から取り出したのは、一枚の書類だった。


それをテーブルに置く。


「これを見ろ」


セリナは書類を手に取った。


そこには、部隊の配置に関する記録と、複数の施設名、日時、そして署名が記されていた。


一部は黒く塗りつぶされている。


だが、署名だけは読めた。


父の名前だった。


セリナは顔を上げた。


「……これは何?」


「私が進めている計画の一部だ」


「本当に、国を変えるつもりなのね」


「そうだ」


父は、はじめて娘の目をまっすぐに見た。


「私は、もう後戻りできない」


母は、静かに目を閉じた。


「やっと言ったわね」


父は母を見た。


「お前も、知っていたはずだ」


「ええ」


「ならば、なぜ止めなかった?」


母は、ゆっくりと目を開いた。


「止めても、あなたはやめないからよ」


そして、木箱の蓋を閉じた。


「それにね、あなた」


母は微笑んだ。


「私は、あなたが王になるところを見たくないの」


父は、動かなかった。


セリナは、その瞬間、理解した。


母は金花を守っているのではない。


父を止めようとしているのでもない。


母は、自分の意志で、この場所に二人を呼んだのだ。


金花をめぐる物語を、終わらせるために。


「お母さん」


セリナが呼んだ。


母は娘を見た。


「何?」


「今夜、ここで終わるの?」


母は、しばらく考えた。


そして、いつもの明るい笑顔を浮かべた。


「さあ。どうかしら」


彼女は木箱に手を置いた。


「物語の結末って、作者が決めるものだと思う?」


セリナは答えなかった。


母は続けた。


「人間は、自分が物語の主人公だと思っている。でも、本当は誰も、最後のページを持っていないのよ」


父は木箱を見つめていた。


セリナは両親を見つめていた。


四挺のブローニング・ハイパワー。


銀花は、ここにはない。


金花は、テーブルの上にある。


そして、今夜、この場所に集まった三人は、それぞれ違う結末を望んでいた。


父は、王になろうとしている。


母は、王を拒んでいる。


セリナは、ただ銀花を愛していた。


それだけだったはずなのに。


母が、静かに言った。


「さて。そろそろ、始めましょうか」


そのとき、洋館の外で車のドアが閉まる音がした。


一台ではなかった。


父が窓の方を向いた。


母は微笑んだまま、動かなかった。


セリナは、初めて気づいた。


この夜、三人だけで終わるはずがなかったのだ。


誰かが、もうひとり。


金花をめぐる物語の、最後の登場人物が来た。


玄関の扉が、ゆっくりと開いた。


そして、誰もまだ、銃を抜いていなかった。

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