第31章 王を狩る者
父から電話があったのは、翌日の午後だった。
「今夜、時間を空けておけ」
挨拶はなかった。
「どこへ行けばいいの?」
「以前、二人で食事をしたホテルがあるだろう。あそこだ」
「お母さんも来るの?」
電話の向こうで、わずかな沈黙があった。
「なぜ、母さんの話が出る?」
「昨日、会ったから」
「……そうか」
父はそれ以上、何も尋ねなかった。
「午後九時。遅れるな」
通話が切れた。
セリナはスマートフォンを机に置いた。
銀花が二挺、いつもの場所に並んでいる。
彼女は片方を手に取り、金属の表面を眺めた。磨き上げられたスライドに、窓から差し込む午後の光が流れていく。
枯れた薔薇。
翼のない天使。
その彫刻を、指先でそっとなぞった。
「今夜は、留守番ね」
もちろん、銃は何も答えなかった。
セリナは丁寧に銀花を保管し、部屋を出た。
今夜、銃を持っていく必要はない。
まだ、その時ではなかった。
*
ホテルのラウンジは、以前と変わっていなかった。
間接照明。磨かれた大理石。グラスの触れ合う音。遠くで静かに演奏されるピアノ。
窓際の席に、父がいた。
制服ではない。濃紺のスーツに白いシャツ。背筋はまっすぐで、テーブルの上には水の入ったグラスしかなかった。
一等陸佐。
自衛官として積み重ねてきた年月が、彼の身のこなしには染みついていた。
無駄な動作がない。
人の話を聞くときでさえ、相手の言葉だけでなく、その沈黙まで観察しているように見える。
「座れ」
セリナは向かいに腰を下ろした。
「お母さんは?」
「来ない」
「そう」
父は娘を見た。
「金花を見たそうだな」
セリナは表情を変えなかった。
「どうして知っているの?」
「母さんから聞いた」
「お母さんは、あなたに何でも話すのね」
「いや。話さないことの方が多い」
父は水を一口飲んだ。
「だから、ここに呼んだ」
セリナは黙っていた。
父は鞄から一枚の写真を取り出した。
古い写真だった。
ベルリン、一九三八年。
曽祖父と曽祖母。その前に置かれた木箱。
そして、二人の背後に立つ、若い男。
セリナは写真を手に取った。
「この人は誰?」
「記録には名前がない」
「また、それ?」
「当時の記録は不完全だ。軍の記録にも、家族の記録にも、この男の名前はない」
「でも、写真には写っている」
「そうだ」
男の顔は鮮明だった。
曽祖父より若く、曽祖母よりも背が高い。表情は硬く、カメラを見ていない。
視線は、木箱に向けられていた。
セリナは写真を裏返した。
何も書かれていない。
「四人目?」
父は答えなかった。
「昔の写真に四人目がいた。木箱には四挺の拳銃が入っていた。二挺は銀花、二挺は金花。そういうこと?」
「そう考える者もいる」
「あなたは?」
「私は、記録にあることと、記録にないことを区別している」
「便利な言い方ね」
「軍人だからな」
セリナは写真をテーブルに置いた。
「お父さん。金花を欲しがっているのは、あなたでしょう?」
父は否定しなかった。
「そうだ」
あまりにもあっさりした返事だった。
セリナは、思わず父の顔を見た。
「何のために?」
「国のためだ」
「本気で言っているの?」
「もちろんだ」
父の表情は変わらなかった。
「この国は、決断できない人間ばかりになった。責任を取りたがらず、誰かの判断に従い、失敗すれば他人のせいにする。政治家は選挙を恐れ、官僚は責任を恐れ、国民は不都合な現実を見ることを恐れている」
「だから、お父さんが決めるの?」
「誰かが決めなければならない」
「それを独裁っていうんじゃないの?」
「言葉の問題だ」
「違うわ。権力の問題よ」
父は娘を見つめた。
その目には怒りがなかった。
むしろ、わずかな感心さえ浮かんでいた。
「母さんに会ったな」
「ええ」
「何を言われた?」
「あなたは金花を欲しがっている。渡したら、自分が王になれると思っているって」
父はしばらく黙っていた。
やがて、口元に薄い笑みを浮かべた。
「母さんらしい」
「否定しないのね」
「私は王になりたいわけではない」
「じゃあ、何になりたいの?」
父は答えた。
「決定権を持つ人間だ」
セリナは息を吐いた。
言葉を飾る気さえないらしい。
「金花が必要なの?」
「必要かどうかは、状況による」
「お母さんは、あなたに渡さなかった」
「ああ」
「だから、今度は私を使うつもり?」
父の目が、わずかに細くなった。
「誰に聞いた?」
「誰にも」
「なら、どうしてそう思う?」
「あなたの娘だからよ」
父は、初めて笑った。
ほんの短い笑いだった。
「そうか」
そして、鞄からもう一枚の写真を取り出した。
今度は新しい写真だった。
母が書斎の机の前に立っている。机の上には、開かれた木箱。
金花が二挺、並んでいた。
セリナは写真を見つめた。
「いつ撮ったの?」
「昨日だ」
「お母さんの家を見張っていたの?」
「確認していた」
「何を?」
「金花が、まだそこにあるかどうかを」
セリナは写真を父の前に戻した。
「あなた、本当にお母さんを愛しているの?」
父の表情が消えた。
長い沈黙があった。
ラウンジのピアノが曲を変えた。
「愛している」
父は静かに言った。
「だからこそ、あの女が何をするか、誰よりもよく知っている」
「それなら、どうして止めないの?」
「止められないからだ」
父は窓の外へ目を向けた。
「母さんは、誰かに従うことを知らない。私にも、国家にも、金花にさえ従わない」
「お母さんは、金花を使って人を殺したの?」
父は娘を見た。
「お前は、答えを知りたいのか?」
「ええ」
「ならば、本人に聞け」
「聞いたわ」
「それでも、ここに来た」
セリナは答えなかった。
父は立ち上がった。
「今夜、金花を手に入れる」
「お母さんから?」
「そうだ」
「渡してくれると思う?」
「渡さなければ、別の方法を取る」
セリナは、父を見上げた。
「それが、あなたの答えなのね」
「私には、やるべきことがある」
「お母さんにも、やるべきことがあるんでしょうね」
父は鞄を閉じた。
「セリナ。お前は、どちらにつく?」
セリナはすぐには答えなかった。
父。
母。
そして、自分の銀花。
そのどれもが、同じ物語の中にありながら、まったく違う場所を向いている。
「私は、銀花を愛しているの」
セリナは言った。
「それは、どちらにつくかという質問の答えじゃない」
「そうだな」
父はうなずいた。
「だが、お前はいずれ選ばなければならない」
「どうして?」
「四挺の銃が、同じ場所に集まるからだ」
セリナは父の顔を見た。
「……誰が、そんなことを決めたの?」
父は答えなかった。
代わりに、上着の内ポケットから、小さな紙片を取り出した。
それをテーブルの上に置く。
そこには、手書きの短い文章があった。
『王を狩る者は、王の許しを必要としない。』
セリナは文字を見つめた。
「誰が書いたの?」
「曽祖母だ」
「どうして、あなたが持っているの?」
「母さんが、私に渡した」
セリナは顔を上げた。
「お母さんが?」
「ずっと昔にな」
父は紙片をしまった。
「その意味を、私は長いこと考えてきた」
「それで、わかったの?」
「ひとつだけ」
父は、娘の目を見た。
「王を殺せるのは、王だけではないということだ」
*
その夜、セリナが帰宅すると、部屋の明かりがついていた。
出かける前、確かに消したはずだった。
扉を開ける。
机の上に、銀花が並んでいる。
その隣に、一枚の紙が置かれていた。
見覚えのある筆跡だった。
母の字だ。
『今夜、来なさい。ひとりで。』
その下に、住所が書かれていた。
セリナは紙を裏返した。
もう一行、書かれていた。
『金花を見たいなら、今度こそ最後まで見なさい。』
セリナは紙を置いた。
銀花を見つめる。
枯れた薔薇と、咲いた薔薇。
翼のない天使と、翼のある天使。
彼女は二挺を手に取り、ゆっくりと保管ケースに収めた。
それから、いつものように柔らかな布で表面を拭いた。
「……こんなに真っ黒に汚しちゃって」
誰に言うともなく、呟いた。
銀花は、いつもと変わらず美しかった。
セリナはケースを閉じた。
今夜、母のところへ行く。
父も、金花を取りに行く。
おそらく、二人は同じ場所に向かうことになる。
四挺のブローニング・ハイパワー。
それらが一堂に会したとき、何が起こるのか。
セリナには、まだわからなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
今夜は、もう誰も、昔の写真の中に隠れていることはできない。
そして、母はもう、何も隠すつもりがないのかもしれなかった。
セリナはコートを羽織り、部屋を出た。
机の上には、何も残っていなかった。
ただ、窓から差し込む街の光が、閉じられたケースの金具に、小さな銀色の線を描いていた。




