第30章 母の切り札
母の家には、昔から妙なものが多かった。
アンティークの鏡。由来のわからない絵画。誰が使っていたのかも知らない銀の食器。棚の奥には、外国語で書かれた古い本が並んでいる。
セリナが子供の頃、母はそれらを指して、よく言ったものだった。
「世の中にはね、値段がつくものと、値段をつけちゃいけないものがあるのよ」
当時のセリナには、その違いがわからなかった。
今でも、よくわからない。
ただ、母がその言葉を口にするとき、決まって父が黙り込んだことだけは覚えていた。
「いらっしゃい」
玄関を開けた母は、いつもの笑顔だった。
明るい。親しげ。少しばかり芝居がかっている。
「どうしたの? お母さんに会いたくなっちゃった?」
「金花を見せて」
母の笑顔が止まった。
ほんの一瞬だった。
しかしセリナは見逃さなかった。
「ご挨拶ねえ。久しぶりに会った母親に、こんにちはの一言もないの?」
「こんにちは。金花を見せて」
「よろしい」
母は楽しそうに笑った。
「お茶にする? それとも先に、家族会議?」
「金花」
「つれない子」
母は踵を返した。
セリナはその後を追った。
居間を抜け、廊下の突き当たりにある書斎へ入る。父がこの家にいた頃から、ほとんど変わっていない部屋だった。
壁一面の本棚。重厚な机。窓際の古い革張りの椅子。
母は机の前で立ち止まった。
「あなたのお父さんはね、物事を二つに分けるのが好きなの」
「二つ?」
「敵と味方。勝者と敗者。正義と悪。国を守る人間と、国を壊す人間」
母は机の引き出しを開けた。
「でも、世の中って、そんなに親切じゃないでしょう?」
引き出しから取り出したのは、小さな鍵だった。
「たとえば、あなたのお父さん。あの人は国を守りたいのかしら。それとも、国を自分のものにしたいのかしら」
「本人に聞けば?」
「聞いたわよ」
母は振り返った。
「答えは、あなたが思っているよりずっとつまらなかった」
鍵を使い、机の脇にある小さな金庫を開ける。
中から取り出したのは、古びた木箱だった。
セリナは息を止めた。
箱の蓋には、王冠と、向かい合う二頭の獅子。
何度も写真で見た紋章。
一九三八年のベルリン。曽祖父と曽祖母。港町の倉庫。消えた記録。
それらが、急にひとつの場所へ集まってきた気がした。
母は箱を机の上に置いた。
「開けてもいい?」
セリナは答えなかった。
母は自分で蓋を開けた。
黒い布の上に、二挺の拳銃が横たわっていた。
黄金色のブローニング・ハイパワー。
セリナは、写真の中で何度も見た銃を、初めて実物として見た。
金色というより、深い蜂蜜色に近かった。光を反射する部分は眩しいほど明るく、曲面には柔らかな陰影が沈んでいる。派手な装飾品のようでいて、全体の輪郭は驚くほど端正だった。
金属の表面に、細かな彫刻が走っている。
一挺には、棘のある薔薇と王冠。そして向かい合う二頭の獅子。
もう一挺にも、同じ意匠。
ただし、こちらの王冠は先端が欠けていた。
片方は完全な王冠。
片方は、傷ついた王冠。
どちらが王で、どちらが王を殺す者なのか。
それは、誰にもわからない。
いや、もしかしたら最初から、そんな区別などなかったのかもしれない。
「……金花」
セリナの声は、自分でも驚くほど小さかった。
母は娘の横顔を眺めた。
「きれいでしょう?」
セリナは答えなかった。
銀花を初めて手にした日のことを思い出していた。
磨き上げた金属の冷たさ。木製グリップの手触り。彫刻の細い線を、指先で確かめたときの喜び。
銃は撃つためだけの道具ではない。
少なくとも、セリナにとってはそうだった。
そして今、目の前にある二挺は、銀花とは違う美しさを持っていた。
銀花が静かな月光なら、金花は夕暮れの太陽だった。
眺めているだけで、何かを所有したいという気持ちが、胸の底から静かに浮かび上がってくる。
それが自分の欲望なのか、長い時間をかけて誰かに植えつけられたものなのか。
セリナには、まだ判断できなかった。
「触ってもいい?」
母は、少しだけ目を細めた。
「どうぞ」
セリナは手を伸ばしかけ、止めた。
「……本当に、あなたのものなの?」
母は笑った。
今度の笑顔には、いつもの悪戯っぽさがなかった。
「所有って、面白い言葉ね」
彼女は箱の縁に指を置いた。
「最初に持っていた人。最後に持っていた人。お金を払った人。誰かを殺すために使った人。誰にも渡さなかった人。いったい、誰が持ち主なのかしら」
「質問に答えて」
「私はこの二挺を持っていた。使ったこともある」
セリナの顔から、表情が消えた。
「……人を殺したの?」
母は答えなかった。
窓の外で、風が木の枝を揺らした。
「お母さん」
「人を殺したことのない人間だけが、正しいことを言えるわけじゃないのよ」
「それは答えじゃない」
「ええ。そうね」
母はあっさり認めた。
「でも、あなたに嘘をつくつもりもないわ」
セリナは母を見つめた。
この人は、何を考えているのだろう。
自分を守ろうとしているのか。
自分を試しているのか。
それとも、すべてを終わらせるために、わざとここまで連れてきたのか。
母は木箱の中の二挺を見下ろした。
「あなたのお父さんは、この銃が欲しかった」
「昔から?」
「ええ。ずっとね」
「どうして渡さなかったの?」
母は顔を上げた。
「渡したら、あの人は自分が王になれると思ったでしょうね」
「王なんて、今どき……」
「王冠をかぶる必要はないのよ、セリナ」
母の声が、初めて冷たくなった。
「人に命令できること。誰かの生き方を決められること。自分の望む世界を、他人に押しつけられること。それだけで十分、王様になれるわ」
セリナは父の姿を思い浮かべた。
制服の襟を正す仕草。
食卓で新聞を読む横顔。
家族の前では決して声を荒らげず、それでも一度決めたことを曲げない人間。
あの父が、金花を欲しがっていた。
そして今も、何かを企てている。
「お父さんは、何をするつもりなの?」
「自分の望む国を作るつもりよ」
「それは、どういう意味?」
「あなたなら、もう想像できるでしょう?」
母は箱の蓋を閉じなかった。
金花は二挺とも、そこにあった。
「私は、あの人が何をするか知っている。でも、止めるつもりはないの」
セリナは母を見た。
「どうして?」
「私が止めたところで、あの人はやめないから」
母は肩をすくめた。
「それにね、セリナ。私はあの人の妻だけれど、あの人の味方とは限らないのよ」
「じゃあ、誰の味方なの?」
母は少し考えた。
そして、いつもの調子で笑った。
「自分の味方」
あまりにも簡単な答えだった。
セリナは、思わず笑いそうになった。
こんなところまで来て、母はまだ母なのだ。
優しくて、身勝手で、何を考えているのかわからない。
そして、決して誰かの所有物にはならない。
「お母さんは、金花をどうするつもり?」
「さあ」
「手放すの?」
「まさか」
母は箱の中を見つめた。
「この子たちは、ずいぶん長いこと、私のそばにいたんだもの」
その言い方が、セリナには妙に引っかかった。
銃を、子供のように呼ぶ。
自分が銀花に向ける感情と、どこか似ていた。
けれど、同じではない。
母の目には、美しさを愛でるだけではない何かがあった。
長い年月。
秘密。
そして、取り返しのつかない記憶。
「お母さん。ひとつだけ聞かせて」
「なあに?」
「曽祖母も、この銃を使ったの?」
母はすぐには答えなかった。
箱の中の、王冠の欠けた金花を見ていた。
「あなたの曽祖母はね、とても美しい人だったそうよ」
「それは知ってる」
「頭もよかった。自分の考えを持っていたし、誰かに従うことを嫌った。あなたに似ていたのかもしれないわね」
「それで?」
母は静かに言った。
「彼女は、自分の人生を自分で決めたの」
「……銃を使って?」
「そういうこともあったでしょうね」
また、答えを避けた。
セリナは苛立った。
しかし、それ以上問い詰めることはできなかった。
母の表情に、初めて見たものがあったからだ。
恐怖ではない。
後悔とも違う。
長いあいだ、ある決断を正しかったと信じて生きてきた人間が、その決断の結末を、もう一度目の前に見せられたときの顔だった。
「セリナ」
母が言った。
「あなたは銀花を愛しているのね」
「ええ」
「この金花を見ても?」
「……ええ」
「どうして?」
セリナは、少しも迷わなかった。
「美しいからよ。それ以外に何があるの?」
母は目を閉じた。
ほんの一瞬、泣きそうに見えた。
だが、次に目を開けたときには、いつもの笑顔に戻っていた。
「そう。なら、よかった」
「何が?」
「あなたが、まだあなた自身でいられること」
母は木箱の蓋を閉じた。
カチリ、と小さな音がした。
「持っていく?」
セリナは母を見つめた。
「……何ですって?」
「金花よ。欲しいんでしょう?」
「欲しいとは言っていない」
「そういう顔をしていたわ」
「見るのと、持つのは違う」
「あら。誰かさんも同じことを言っていたわね」
父のことだろう。
母は木箱を両手で持ち上げ、セリナの前に差し出した。
「持っていきなさい」
セリナは受け取らなかった。
「どうして?」
「あなたに必要だから」
「何に?」
母は答えなかった。
代わりに、木箱を机の上に戻した。
「ひとつだけ、約束してちょうだい」
「何?」
「この銃を見て、誰かを悪人だと決めつけないこと」
セリナは黙っていた。
「そして、誰かがこの銃を持っているからといって、その人を王様だと思わないこと」
母は娘をまっすぐに見た。
「銃は、持ち主の正体を教えてくれない。持ち主が何をするかを決めるわけでもない。最後に決めるのは、人間よ」
「……お母さんが言うと、説得力があるわね」
「でしょう?」
母は笑った。
「経験豊富なの」
セリナは深く息を吐いた。
この人には敵わない。
少なくとも、言葉では。
玄関まで見送る母に、セリナは最後の質問をした。
「お父さんは、金花がここにあることを知っているの?」
母は、答える代わりに娘の頬に手を触れた。
子供の頃と同じ、温かな手だった。
「気をつけて帰りなさい」
「お母さん」
「何?」
「私に何か隠しているでしょう」
母は笑った。
「もちろん」
あまりにも堂々とした返事だった。
「でもね、セリナ。隠していることがあるのと、あなたを騙しているのは、同じじゃないのよ」
扉が閉まった。
セリナはしばらく、その場に立っていた。
やがて振り返り、窓の向こうに母の姿を探した。
母は書斎に戻っていた。
机の上に木箱を置き、その蓋を開けている。
金花を眺めながら、何かを呟いた。
声は聞こえなかった。
けれど、その唇の動きは、セリナにも読めた。
――もう、時間がない。
母は受話器を取り上げた。
「私よ」
短い沈黙。
「ええ。見せたわ」
また沈黙。
母は、箱の中の二挺に目を落とした。
「そうね。あの子は、私に似ている」
受話器の向こうから、何かを尋ねる声がした。
母は微笑んだ。
「いいえ。そこが違うのよ」
そして、静かに言った。
「私は、あの子をあなたに渡さない」
電話を切った母は、木箱の蓋を閉じた。
黄金色の二挺が、暗闇に沈んだ。
その夜、セリナは帰宅すると、銀花を机の上に並べた。
左には枯れた薔薇と翼のない天使。
右には咲いた薔薇と翼のある天使。
二挺を寄せると、彫刻はひとつの絵になった。
セリナは長いこと、それを眺めていた。
やがて、ぽつりと言った。
「……そろそろ、会いに行かなきゃね」
誰に会うのか。
父か。
母か。
それとも、金花を欲しがっている、もうひとりの人間か。
答えは、まだ出ていなかった。
ただひとつ、確かなことがある。
四挺のブローニング・ハイパワーは、もう別々の物語には戻れない。
そして、誰かが最初に手放したものを、誰かが最後に取り戻そうとしていた。
銀花は、机の上で静かに光っていた。




