↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/34

第30章 母の切り札

母の家には、昔から妙なものが多かった。


アンティークの鏡。由来のわからない絵画。誰が使っていたのかも知らない銀の食器。棚の奥には、外国語で書かれた古い本が並んでいる。


セリナが子供の頃、母はそれらを指して、よく言ったものだった。


「世の中にはね、値段がつくものと、値段をつけちゃいけないものがあるのよ」


当時のセリナには、その違いがわからなかった。


今でも、よくわからない。


ただ、母がその言葉を口にするとき、決まって父が黙り込んだことだけは覚えていた。


「いらっしゃい」


玄関を開けた母は、いつもの笑顔だった。


明るい。親しげ。少しばかり芝居がかっている。


「どうしたの? お母さんに会いたくなっちゃった?」


「金花を見せて」


母の笑顔が止まった。


ほんの一瞬だった。


しかしセリナは見逃さなかった。


「ご挨拶ねえ。久しぶりに会った母親に、こんにちはの一言もないの?」


「こんにちは。金花を見せて」


「よろしい」


母は楽しそうに笑った。


「お茶にする? それとも先に、家族会議?」


「金花」


「つれない子」


母は踵を返した。


セリナはその後を追った。


居間を抜け、廊下の突き当たりにある書斎へ入る。父がこの家にいた頃から、ほとんど変わっていない部屋だった。


壁一面の本棚。重厚な机。窓際の古い革張りの椅子。


母は机の前で立ち止まった。


「あなたのお父さんはね、物事を二つに分けるのが好きなの」


「二つ?」


「敵と味方。勝者と敗者。正義と悪。国を守る人間と、国を壊す人間」


母は机の引き出しを開けた。


「でも、世の中って、そんなに親切じゃないでしょう?」


引き出しから取り出したのは、小さな鍵だった。


「たとえば、あなたのお父さん。あの人は国を守りたいのかしら。それとも、国を自分のものにしたいのかしら」


「本人に聞けば?」


「聞いたわよ」


母は振り返った。


「答えは、あなたが思っているよりずっとつまらなかった」


鍵を使い、机の脇にある小さな金庫を開ける。


中から取り出したのは、古びた木箱だった。


セリナは息を止めた。


箱の蓋には、王冠と、向かい合う二頭の獅子。


何度も写真で見た紋章。


一九三八年のベルリン。曽祖父と曽祖母。港町の倉庫。消えた記録。


それらが、急にひとつの場所へ集まってきた気がした。


母は箱を机の上に置いた。


「開けてもいい?」


セリナは答えなかった。


母は自分で蓋を開けた。


黒い布の上に、二挺の拳銃が横たわっていた。


黄金色のブローニング・ハイパワー。


セリナは、写真の中で何度も見た銃を、初めて実物として見た。


金色というより、深い蜂蜜色に近かった。光を反射する部分は眩しいほど明るく、曲面には柔らかな陰影が沈んでいる。派手な装飾品のようでいて、全体の輪郭は驚くほど端正だった。


金属の表面に、細かな彫刻が走っている。


一挺には、棘のある薔薇と王冠。そして向かい合う二頭の獅子。


もう一挺にも、同じ意匠。


ただし、こちらの王冠は先端が欠けていた。


片方は完全な王冠。


片方は、傷ついた王冠。


どちらが王で、どちらが王を殺す者なのか。


それは、誰にもわからない。


いや、もしかしたら最初から、そんな区別などなかったのかもしれない。


「……金花」


セリナの声は、自分でも驚くほど小さかった。


母は娘の横顔を眺めた。


「きれいでしょう?」


セリナは答えなかった。


銀花を初めて手にした日のことを思い出していた。


磨き上げた金属の冷たさ。木製グリップの手触り。彫刻の細い線を、指先で確かめたときの喜び。


銃は撃つためだけの道具ではない。


少なくとも、セリナにとってはそうだった。


そして今、目の前にある二挺は、銀花とは違う美しさを持っていた。


銀花が静かな月光なら、金花は夕暮れの太陽だった。


眺めているだけで、何かを所有したいという気持ちが、胸の底から静かに浮かび上がってくる。


それが自分の欲望なのか、長い時間をかけて誰かに植えつけられたものなのか。


セリナには、まだ判断できなかった。


「触ってもいい?」


母は、少しだけ目を細めた。


「どうぞ」


セリナは手を伸ばしかけ、止めた。


「……本当に、あなたのものなの?」


母は笑った。


今度の笑顔には、いつもの悪戯っぽさがなかった。


「所有って、面白い言葉ね」


彼女は箱の縁に指を置いた。


「最初に持っていた人。最後に持っていた人。お金を払った人。誰かを殺すために使った人。誰にも渡さなかった人。いったい、誰が持ち主なのかしら」


「質問に答えて」


「私はこの二挺を持っていた。使ったこともある」


セリナの顔から、表情が消えた。


「……人を殺したの?」


母は答えなかった。


窓の外で、風が木の枝を揺らした。


「お母さん」


「人を殺したことのない人間だけが、正しいことを言えるわけじゃないのよ」


「それは答えじゃない」


「ええ。そうね」


母はあっさり認めた。


「でも、あなたに嘘をつくつもりもないわ」


セリナは母を見つめた。


この人は、何を考えているのだろう。


自分を守ろうとしているのか。


自分を試しているのか。


それとも、すべてを終わらせるために、わざとここまで連れてきたのか。


母は木箱の中の二挺を見下ろした。


「あなたのお父さんは、この銃が欲しかった」


「昔から?」


「ええ。ずっとね」


「どうして渡さなかったの?」


母は顔を上げた。


「渡したら、あの人は自分が王になれると思ったでしょうね」


「王なんて、今どき……」


「王冠をかぶる必要はないのよ、セリナ」


母の声が、初めて冷たくなった。


「人に命令できること。誰かの生き方を決められること。自分の望む世界を、他人に押しつけられること。それだけで十分、王様になれるわ」


セリナは父の姿を思い浮かべた。


制服の襟を正す仕草。


食卓で新聞を読む横顔。


家族の前では決して声を荒らげず、それでも一度決めたことを曲げない人間。


あの父が、金花を欲しがっていた。


そして今も、何かを企てている。


「お父さんは、何をするつもりなの?」


「自分の望む国を作るつもりよ」


「それは、どういう意味?」


「あなたなら、もう想像できるでしょう?」


母は箱の蓋を閉じなかった。


金花は二挺とも、そこにあった。


「私は、あの人が何をするか知っている。でも、止めるつもりはないの」


セリナは母を見た。


「どうして?」


「私が止めたところで、あの人はやめないから」


母は肩をすくめた。


「それにね、セリナ。私はあの人の妻だけれど、あの人の味方とは限らないのよ」


「じゃあ、誰の味方なの?」


母は少し考えた。


そして、いつもの調子で笑った。


「自分の味方」


あまりにも簡単な答えだった。


セリナは、思わず笑いそうになった。


こんなところまで来て、母はまだ母なのだ。


優しくて、身勝手で、何を考えているのかわからない。


そして、決して誰かの所有物にはならない。


「お母さんは、金花をどうするつもり?」


「さあ」


「手放すの?」


「まさか」


母は箱の中を見つめた。


「この子たちは、ずいぶん長いこと、私のそばにいたんだもの」


その言い方が、セリナには妙に引っかかった。


銃を、子供のように呼ぶ。


自分が銀花に向ける感情と、どこか似ていた。


けれど、同じではない。


母の目には、美しさを愛でるだけではない何かがあった。


長い年月。


秘密。


そして、取り返しのつかない記憶。


「お母さん。ひとつだけ聞かせて」


「なあに?」


「曽祖母も、この銃を使ったの?」


母はすぐには答えなかった。


箱の中の、王冠の欠けた金花を見ていた。


「あなたの曽祖母はね、とても美しい人だったそうよ」


「それは知ってる」


「頭もよかった。自分の考えを持っていたし、誰かに従うことを嫌った。あなたに似ていたのかもしれないわね」


「それで?」


母は静かに言った。


「彼女は、自分の人生を自分で決めたの」


「……銃を使って?」


「そういうこともあったでしょうね」


また、答えを避けた。


セリナは苛立った。


しかし、それ以上問い詰めることはできなかった。


母の表情に、初めて見たものがあったからだ。


恐怖ではない。


後悔とも違う。


長いあいだ、ある決断を正しかったと信じて生きてきた人間が、その決断の結末を、もう一度目の前に見せられたときの顔だった。


「セリナ」


母が言った。


「あなたは銀花を愛しているのね」


「ええ」


「この金花を見ても?」


「……ええ」


「どうして?」


セリナは、少しも迷わなかった。


「美しいからよ。それ以外に何があるの?」


母は目を閉じた。


ほんの一瞬、泣きそうに見えた。


だが、次に目を開けたときには、いつもの笑顔に戻っていた。


「そう。なら、よかった」


「何が?」


「あなたが、まだあなた自身でいられること」


母は木箱の蓋を閉じた。


カチリ、と小さな音がした。


「持っていく?」


セリナは母を見つめた。


「……何ですって?」


「金花よ。欲しいんでしょう?」


「欲しいとは言っていない」


「そういう顔をしていたわ」


「見るのと、持つのは違う」


「あら。誰かさんも同じことを言っていたわね」


父のことだろう。


母は木箱を両手で持ち上げ、セリナの前に差し出した。


「持っていきなさい」


セリナは受け取らなかった。


「どうして?」


「あなたに必要だから」


「何に?」


母は答えなかった。


代わりに、木箱を机の上に戻した。


「ひとつだけ、約束してちょうだい」


「何?」


「この銃を見て、誰かを悪人だと決めつけないこと」


セリナは黙っていた。


「そして、誰かがこの銃を持っているからといって、その人を王様だと思わないこと」


母は娘をまっすぐに見た。


「銃は、持ち主の正体を教えてくれない。持ち主が何をするかを決めるわけでもない。最後に決めるのは、人間よ」


「……お母さんが言うと、説得力があるわね」


「でしょう?」


母は笑った。


「経験豊富なの」


セリナは深く息を吐いた。


この人には敵わない。


少なくとも、言葉では。


玄関まで見送る母に、セリナは最後の質問をした。


「お父さんは、金花がここにあることを知っているの?」


母は、答える代わりに娘の頬に手を触れた。


子供の頃と同じ、温かな手だった。


「気をつけて帰りなさい」


「お母さん」


「何?」


「私に何か隠しているでしょう」


母は笑った。


「もちろん」


あまりにも堂々とした返事だった。


「でもね、セリナ。隠していることがあるのと、あなたを騙しているのは、同じじゃないのよ」


扉が閉まった。


セリナはしばらく、その場に立っていた。


やがて振り返り、窓の向こうに母の姿を探した。


母は書斎に戻っていた。


机の上に木箱を置き、その蓋を開けている。


金花を眺めながら、何かを呟いた。


声は聞こえなかった。


けれど、その唇の動きは、セリナにも読めた。


――もう、時間がない。


母は受話器を取り上げた。


「私よ」


短い沈黙。


「ええ。見せたわ」


また沈黙。


母は、箱の中の二挺に目を落とした。


「そうね。あの子は、私に似ている」


受話器の向こうから、何かを尋ねる声がした。


母は微笑んだ。


「いいえ。そこが違うのよ」


そして、静かに言った。


「私は、あの子をあなたに渡さない」


電話を切った母は、木箱の蓋を閉じた。


黄金色の二挺が、暗闇に沈んだ。


その夜、セリナは帰宅すると、銀花を机の上に並べた。


左には枯れた薔薇と翼のない天使。


右には咲いた薔薇と翼のある天使。


二挺を寄せると、彫刻はひとつの絵になった。


セリナは長いこと、それを眺めていた。


やがて、ぽつりと言った。


「……そろそろ、会いに行かなきゃね」


誰に会うのか。


父か。


母か。


それとも、金花を欲しがっている、もうひとりの人間か。


答えは、まだ出ていなかった。


ただひとつ、確かなことがある。


四挺のブローニング・ハイパワーは、もう別々の物語には戻れない。


そして、誰かが最初に手放したものを、誰かが最後に取り戻そうとしていた。


銀花は、机の上で静かに光っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。