第29章 四挺のブローニング
翌朝、セリナは銀花を机の上に並べた。
コーヒーは冷めていた。
彼女は気にしなかった。
目の前にある二挺のブローニング・ハイパワー。その銀色の表面には、窓から差し込む朝の光が細く伸びていた。
枯れた薔薇と、咲いた薔薇。
翼のない天使と、翼のある天使。
どちらも美しい。
そして、どちらも彼女のものだった。
セリナは昨夜の写真を取り出した。
「四つは、ひとつの手から始まった」
ドイツ語の一文を、もう一度読み直す。
四つ。
銀花の二挺と、黄金銃の二挺。
そう考えるのが自然だった。
しかし、四挺が同じ手から生まれたという意味なのか。それとも、四挺が同じ人間の手に渡ったという意味なのか。
たった一行の文章は、何も教えてくれなかった。
「翻訳した人間が、勝手に意味を足した可能性もあるわね」
セリナは独り言を言いながら、写真の裏面を確かめた。
紙は古く、端がわずかに黄ばんでいる。鉛筆の筆跡も薄い。撮影年月日らしい数字と、見慣れない記号が残されていた。
その記号は、銀花のグリップ近くに見つけた線と、よく似ていた。
彼女は写真を置き、銀花の一挺を手に取った。
銃を愛する人間なら、わかることがある。
同じモデルでも、手に取ったときの印象は一挺ごとに違う。仕上げの違い、使われた時間、保管状態。金属の表面に残る細かな痕跡は、その銃が歩んできた時間を物語る。
だが、セリナの銀花は、ただ古い銃を美しく磨いたものではなかった。
装飾の配置に、明確な意図がある。
二挺を並べたときに初めて完成する絵柄。
引き金とハンマーに添えられた金色。
そして、銃の本来の輪郭を損なわない、慎重な装飾。
誰かが、この二挺を一組として設計した。
それだけは間違いなかった。
「黄金銃も、そうなのかしら」
セリナは、匿名の番号から送られてきた写真を表示した。
黄金のブローニング・ハイパワー。
光を受けたスライドは、金属というより、磨き上げられた彫刻のように見える。グリップには棘のある薔薇。王冠。そして、向かい合う二頭の獅子。
派手なのに、品がある。
威圧的なのに、どこか寂しい。
セリナは画面を拡大し、銃の輪郭をじっと見つめた。
「……ずるいわね」
思わず口に出た。
「そんな顔をされたら、実物を見たくなるじゃない」
彼女は銀花を見た。
「浮気じゃないわよ」
もちろん、返事はない。
「鑑賞よ。純粋な鑑賞」
そう言いながら、セリナは自分が言い訳をしていることに気づいていた。
彼女は黄金銃を欲しがっている。
それも、ただ伝説の真偽を確かめるためだけではない。
美しいものを、自分の目で見たい。
手に取って、その重さを知りたい。
光の当たり方によって変わる金色を、確かめたい。
それは、銀花を好きになったときと同じ気持ちだった。
だからこそ、厄介だった。
彼女は写真を閉じた。
そのとき、携帯電話が鳴った。
昨夜の匿名番号だった。
『四挺を、同じものだと思わないでください』
セリナは短く息を吐いた。
「今度は何?」
返信する。
『どういう意味?』
数秒後、答えが届いた。
『銀の二挺は、互いを完成させる。黄金の二挺も、同じです』
セリナは画面を見た。
それなら、すでにわかっている。
写真の黄金銃にも、二挺を対にする意匠があった。片方の王冠には欠けた部分があり、もう片方は完全な形をしている。
しかし、次の一文で、彼女の表情が変わった。
『ただし、銀と黄金は対ではありません』
「……どうして?」
送信してから、セリナは少し後悔した。
相手の思うつぼかもしれない。
こちらが質問するたび、向こうは少しずつ情報を与える。答えを教えるのではなく、次の疑問を作る。
まるで、誰かが彼女を、見えない展示室の中へ誘導しているようだった。
返信が届いた。
『銀は、黄金を写したものではありません』
セリナは、銀花を見た。
その美しい表面に、朝の光が映っている。
銀色。
黄金色。
色が違うだけなら、説明はいくらでもできる。後から塗装されたのかもしれない。別の職人が同じ意匠を模倣したのかもしれない。写真の年代や来歴が間違っている可能性もある。
だが、相手はそういう話をしていない。
銀は黄金を写したものではない。
つまり、二つの組は、最初から別々に存在していたということなのか。
それとも――。
セリナは携帯電話を置いた。
考えすぎるのは、好きではなかった。
銃を見ればいい。
目の前にあるものを、よく見る。
外は曇っていた。
歩道の向こうを、買い物袋を提げた老人が歩いていく。信号待ちの学生たちが笑っている。車が一台、濡れた道路を通り過ぎた。
どこにでもある午後だった。
セリナは携帯電話を取り出し、黄金銃の写真を開いた。
画面の中で、金色のブローニング・ハイパワーが光っている。
彼女は写真をしばらく眺めたあと、呟いた。
「早く会いたいわね」
その瞬間、別の通知が届いた。
匿名の番号からだった。
添付されていたのは、見覚えのある古い写真。
曽祖父と曽祖母が写った、一九三八年のベルリン。
ただし、前に見たものとは違っていた。
写真の中央にある木箱の蓋が、開いている。
中に収められているのは、四挺のブローニング・ハイパワーだった。
銀が二挺。
黄金が二挺。
セリナは足を止めた。
これまでの写真では、木箱の中身は見えなかった。
誰かが、別の角度から撮影したのか。
それとも、同じ写真を加工したのか。
彼女は画像を拡大した。
四挺の銃は、それぞれ別の布に包まれていた。
銀色の二挺には、薔薇と天使。
黄金の二挺には、王冠と二頭の獅子。
そして、木箱の内側に、小さな文字が刻まれていた。
セリナは読み取ろうとした。
文字はドイツ語ではなかった。
日本語だった。
『四挺、返却先未定』
その下に、手書きの名前がひとつ。
三浦。
曽祖父の姓だった。
セリナは、しばらく画面を見つめていた。
やがて、新しいメッセージが届いた。
『あなたの銀花は、四挺のうちの二挺です』
続けて、もう一通。
『残りの二挺を探しているのは、あなたの家族だけではありません』
セリナは携帯電話を握りしめた。
黄金銃を見たい。
その気持ちは、今も変わらない。
けれど、今度は少し違った。
黄金銃を手にしたいのではない。
四挺が、なぜ同じ箱に収められていたのか。
誰が作り、誰が運び、誰が手放したのか。
そして、なぜ一挺ずつではなく、四挺だったのか。
その答えを知りたかった。
セリナは歩き出した。
銀花の待つ家へ。
彼女の頭の中では、四挺のブローニング・ハイパワーが、古い木箱の中に並んでいた。
銀と黄金。
二組の対。
互いに似ているのに、同じではない。
そして、その四挺を前にして、誰かが決めたのだ。
どれを誰に渡すのか。
セリナは、まだ知らなかった。
その決定が、彼女の生まれるずっと前に行われたのか。
それとも、今もなお、続いているのか。
ただひとつ、確かなことがあった。
彼女はもう、銀花を単なる美しい二挺の銃として見ることができなくなっていた。
それでも、家に帰ったら、いつものように手入れをするだろう。
柔らかな布で磨き、光を確かめ、二挺を並べる。
美しいから。
それ以外に、何があるのだろう。
セリナは、ほんの少しだけ笑った。
セリナは、机の上に写真を並べた。
ベルリンで撮影された、古い木箱。
その中に収められた四挺の拳銃。
銀色の二挺と、黄金色の二挺。
写真は古く、細部はぼやけている。銃の刻印も、製造番号も読み取れない。これが本当に彼女の銀花と同じ銃なのか、確かなことは何ひとつなかった。
それでも、ひとつだけ分かったことがある。
誰かが四挺を集めた。
誰かが二挺を銀色にし、誰かが二挺を黄金色にした。
そして、その銃を手にした人間たちは、それぞれ違うものを見ていた。
母は、何を見たのだろう。
父は、何を見ているのだろう。
セリナは写真を伏せた。
答えを知りたいと思った。
だが、それ以上に、銀花を手放したくなかった。
それは謎を解くための道具ではない。誰かの野望を叶えるための鍵でもない。
ただ、美しかった。
「……それだけでいいのに」
セリナは引き出しから銀花を取り出した。
二挺を布の上に並べ、静かに手入れを始めた。




