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第28章 空の木箱

セリナが帰宅したのは、午後十時を少し回った頃だった。


玄関の灯りをつけ、靴を脱ぐ。


部屋は暗かった。


彼女は照明をつけず、窓際まで歩いた。


街の灯りが、ガラスの向こうで滲んでいる。


母は金花を持っていた。


少なくとも、かつては。


そして今、金花は母の手元にはない。


では、誰が持っているのか。


父か。


あの顔の見えない誰かか。


あるいは、これまで自分を導いてきた、正体の分からない人物か。


セリナは目を閉じた。


考えれば考えるほど、金花は遠ざかっていく。


まるで、こちらが考えることを知っていて、わざと姿を隠しているようだった。


「……馬鹿馬鹿しい」


彼女は呟いた。


銃に意思などあるはずがない。


金属と木と、いくつもの小さな部品。


美しく作られた工業製品。


ただ、それだけだ。


セリナは部屋の灯りをつけた。


テーブルの上には、銀花が並んでいた。


一挺は枯れた薔薇。


もう一挺は咲き誇る薔薇。


彼女は二挺の間に指を置いた。


「あなたたちは、何も知らないわよね」


返事はなかった。


当然だった。


セリナは微笑んだ。


それから、いつものように二挺を手に取った。


銀色の表面に、部屋の灯りが映る。


その美しさは、何も変わっていなかった。


*


翌朝、見知らぬ番号から電話がかかってきた。


セリナは画面を見てから、通話ボタンを押した。


「誰?」


『お母上に会われたそうですね』


聞き覚えのない男の声だった。


年齢は分からない。


低く、抑揚が少ない。


「あなた、誰なの?」


『それを知ることに、今は意味がありません』


「便利な言い方ね」


『あなたは、金花の所在を知りたい』


「ええ」


『では、一つだけお教えしましょう』


セリナは黙って聞いた。


『お父上も、お母上も、金花を所有していた。しかし、二人とも金花を自由にはできなかった』


「どういう意味?」


『所有することと、支配することは違います』


セリナは小さく息を吐いた。


父も、母も、同じような言葉を使う。


まるで、誰かがあらかじめ台本を渡しているかのようだった。


「あなたたちは、私に何をさせたいの?」


『何も』


「嘘ね」


『そう思われても構いません』


男は淡々と続けた。


『あなたが何をするかは、あなた自身が決めることです。ただし、もう一つだけ忠告しておきます』


「何?」


『お父上に、金花の現在の所在を尋ねてはいけません』


「どうして?」


『答えが返ってくるからです』


セリナは眉を寄せた。


「答えが返ってくるのが、どうしていけないの?」


『その答えを、あなたは信じてしまうでしょう』


通話が切れた。


セリナはスマートフォンを見つめた。


男は何者なのか。


父と母を知っている。


金花についても知っている。


そして、自分が次に何をするのかまで、ある程度予測している。


彼女は着替えを済ませ、机の上の写真を集めた。


ベルリンの曽祖父と曽祖母


木箱。


金花。


港の倉庫。


そして、あの指輪。


写真を順番に並べていく。


何度も見たものばかりだった。


だが、今朝は一つだけ、気になることがあった。


ベルリンの写真。


若い曽祖父の隣に立つ曽祖母。


母の視線はカメラに向いていない。


彼女は、父を見ていた。


その表情は笑顔だった。


しかし、目は笑っていなかった。


セリナは写真を持ち上げた。


曽祖父は軍服を着ている。


曽祖母は華やかな服を着ている。


二人の間に、金花の入った木箱。


まるで記念撮影のようだった。


だが、写真の裏には日付も場所も記されていない。


ベルリン、一九三八年。


それは、別の資料から得た情報だった。


この写真が本当にその年に撮られたものか、誰も証明していない。


セリナは写真を置いた。


自分は、何を信じてここまで来たのだろう。


古い記録。


匿名のメッセージ。


殺された人々。


父の言葉。


母の沈黙。


それらをつなぎ合わせ、ひとつの物語にしようとしていた。


だが、物語を作ることと、真実を見つけることは同じではない。


古物商の男が言っていた言葉を思い出した。


人は謎を解きたいのではない。


自分が信じたい物語を、謎の中に見つけたいのだ。


セリナは、ゆっくりと写真を伏せた。


「……そういうことね」


彼女が今、最も知りたいのは金花の所在ではない。


誰が、金花についての物語を作っているのか。


そして、その物語の中で、自分にどんな役を与えようとしているのか。


*


午後、セリナは父の勤務先へ電話をかけた。


代表番号から取り次いでもらおうとしたが、本人は不在だという。


次に携帯電話へかけた。


応答はなかった。


三度目に、短いメッセージが届いた。


今夜、会おう。一人で来なさい。


場所は、都内のホテルだった。


父が以前、彼女を呼び出した場所とは違う。


セリナはメッセージを読み返した。


その直後、別の番号から通知が届いた。


添付されていたのは、一枚の写真。


ホテルのロビーだった。


中央に、父が立っている。


その少し離れた場所に、母がいた。


二人は互いに背を向けている。


写真の撮影日時は、昨日。


母に会う前だった。


セリナは画像を拡大した。


父は正面を向いている。


母は横顔しか見えない。


そして、二人の間にあるテーブルの上に、小さな箱が置かれていた。


王冠と二頭の獅子。


金花の紋章。


セリナは画面を見つめた。


昨日、母の書斎にあった木箱は空だった。


では、この写真の箱には何が入っているのか。


メッセージが届いた。


「今夜、お父上があなたに見せるものを、信じないでください」


セリナは、しばらく考えていた。


それから返信した。


「あなたは、誰?」


返事はすぐに来た。


「あなたが最初に金花を見つけたときから、ずっと近くにいます」


セリナは顔を上げた。


部屋の中には誰もいなかった。


窓の外を車が通り過ぎる。


冷蔵庫が低く唸っている。


それだけだった。


彼女はスマートフォンを伏せた。


銀花のケースを開ける。


二挺の銀色が、静かに横たわっていた。


セリナは片方を手に取り、刻印を眺めた。


枯れた薔薇。


翼のない天使。


彼女はその銃を、ゆっくりと元の位置に戻した。


今夜、父に会う。


何を見せられても、何を聞かされても、すぐには信じない。


金花の伝説も。


母の告白も。


父の野望も。


そして、自分を導いている誰かの言葉も。


セリナはケースを閉じた。


「自分の目で確かめるわ」


そう言って、立ち上がった。


そのとき、テーブルの上のスマートフォンが、もう一度だけ震えた。


画面には、写真が一枚表示されていた。


見知らぬ部屋。


壁には何もない。


窓もない。


中央に置かれた机の上に、二挺の金花が並んでいる。


その向こうに、椅子が一脚。


誰も座っていない。


画像の下には、短い文章があった。


「今夜、あなたの家族は四人になります」


セリナは画面を見つめた。


家族は三人だ。


父と母と、自分。


四人目など、いるはずがない。


彼女は返信しなかった。


写真を保存することもしなかった。


ただ、しばらく眺めていた。


やがて画面が暗くなり、そこに自分の顔が映った。


セリナは、その顔を見つめ返した。


そして初めて、金花を探し始めてからずっと、自分が何かを見落としているのではないかと思った。


それは銃のことではない。


父のことでも、母のことでもない。


自分自身のことだった。

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