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第27章 母の部屋

実家の門は、昔と変わっていなかった。


黒い鉄柵。磨かれた石畳。手入れの行き届いた植え込み。


セリナが子供だった頃、この家は大きく見えた。


今は違う。


ただ、広いだけの家だった。


彼女は玄関の呼び鈴を押した。


返事はなかった。


もう一度押す。


やはり、何も聞こえない。


セリナは母に電話をかけた。呼び出し音が続き、やがて留守番電話に切り替わった。


「……お母さん?」


自分の声が、ひどく場違いに聞こえた。


彼女は電話を切った。


門の脇に、見慣れた小さな植木鉢があった。母が気まぐれに買ってきて、いつも枯らしてしまう花だ。


今度は枯れていなかった。


葉は青々としていた。


セリナはそれをしばらく眺めたあと、門を離れた。


母はいない。


それだけのことだ。


そう考えようとした。


だが、帰る気にはなれなかった。


*


家の裏手に回ると、書斎の窓が少しだけ開いていた。


子供の頃、母はそこから庭を眺めるのが好きだった。


父が仕事で帰らない夜も、母はよく書斎にいた。


何をしていたのか、セリナは知らない。


母は、娘に隠し事をするのがうまかった。


いや。


隠していることを、隠しているように見せないのがうまかったのだ。


セリナは窓の向こうを覗いた。


机の上に、書類が広げられていた。


その中央に、木箱がある。


王冠と二頭の獅子。


金花の紋章。


セリナは息をのんだ。


母は金花を手放していない。


あのメッセージが本当なら、今も二挺を所有している。


だが、目の前の木箱は閉じられていた。


中身は見えない。


セリナは窓から離れた。


勝手に家へ入るつもりはなかった。


母が帰ってきたら、正面から聞けばいい。


今度こそ、答えを聞く。


そう決めたとき、背後で声がした。


「何をしているの?」


振り返ると、母が立っていた。


薄いコートを羽織り、片手に買い物袋を提げている。


いつもの母だった。


セリナは、思わず笑いそうになった。


こんなときでも、母は普通に買い物をして帰ってくる。


世界のどこかで人が殺されていても。


自分の娘が、その殺人の影を追っていても。


母は夕飯の材料を買う。


「電話に出なかったから」


「お買い物よ。電話に出られないことくらいあるでしょう?」


母は買い物袋を持ち上げた。


「夕飯、食べていく?」


「金花の話をしに来たの」


「あら。お腹が空いていると、いい話も悪い話も、ろくなことにならないわよ」


母は笑った。


そして玄関へ向かった。


「入って」


*


台所には、出汁の匂いが漂っていた。


母は手際よく野菜を洗い、包丁を動かした。


セリナは椅子に座り、その背中を見ていた。


「お母さん」


「なあに?」


「金花は、今どこにあるの?」


包丁の音が止まった。


ほんの一瞬。


母は再び手を動かした。


「知らないわ」


「嘘ね」


「そう思うの?」


「写真を見た。二挺とも、お母さんの手に渡ったって、父さんが書いていた」


母は野菜を切り終え、まな板の上を片づけた。


「お父さんは、昔から字を書くのが好きだったのよ。大事そうなことを書いて、何かを残したつもりになるの」


「父さんは金花を知っている」


「ええ」


母はあっさり認めた。


「知っているでしょうね」


「お母さんが使っていたことも?」


今度は、母は振り返った。


その顔に怒りはなかった。


悲しみもなかった。


ただ、娘をじっと見つめていた。


「誰から聞いたの?」


「答えて」


「あなた、最近そればかりね」


母は小さくため息をついた。


「質問をするのは簡単よ。でも、答えを聞いたあと、どうするつもり?」


「真実を知りたい」


「真実?」


母は、その言葉を口の中で転がした。


「セリナ。あなたが好きな銀花。あれを初めて見たとき、どう思った?」


「きれいだと思った」


「どうして?」


「美しいからよ。それ以外に何があるの?」


母は微笑んだ。


「そうね。あなたは、昔からそうだった」


彼女は包丁を置き、手を拭いた。


「でもね。金花を見た人も、最初は同じことを言うのよ」


セリナは母の目を見た。


「金花も、美しいの?」


「ええ。とても」


母の声には、懐かしさがあった。


愛着と言ってもよかった。


「初めて見たとき、私は思ったわ。こんなに美しいものが、どうして人を不幸にするのかしらって」


「それで?」


「持ってみたの」


母は笑った。


「ただ、それだけよ」


セリナは何も言わなかった。


「そのあと、何が起きたか。あなたは知りたいのね」


「人が死んだ」


「そうね」


「銃砲店の主人も。刑事も。港の管理人も」


母の表情が変わった。


初めてだった。


ほんのわずかだが、確かに変わった。


「その人たちは、金花を探していたの?」


「少なくとも、関係していた」


「そう」


母は椅子に腰を下ろした。


「じゃあ、あなたも気をつけなさい」


「何に?」


「金花を探している人たちに」


「お母さんも、その一人でしょう?」


母は答えなかった。


台所の時計が音を立てた。


秒針が一周する。


もう一周する。


母はやがて、娘の手元に目を落とした。


セリナの指には、何もない。


銀花はケースの中だ。


「あなたは、金花が欲しいの?」


「違う」


答えは即座に出た。


「私は銀花が好きなの」


「それは知っているわ」


「金花を手に入れたいわけじゃない。何があったのか知りたいだけ」


母はしばらく黙っていた。


それから、ゆっくりと言った。


「それなら、金花を探すのはおやめなさい」


「どうして?」


「見つけたら、あなたはきっと、手に取ってしまうから」


セリナは眉をひそめた。


「私は、そんなに馬鹿じゃない」


「ええ。あなたは賢い子よ」


母は娘の頬に触れた。


その手は温かかった。


「だから怖いの」


*


夕食は二人分、用意された。


母は煮物を皿に盛り、セリナの前に置いた。


何年も前から、何も変わっていないようだった。


食卓の花瓶。


壁に掛かった時計。


父が選んだという、趣味の悪い絵。


セリナは箸を持った。


「お父さんは、何をしようとしているの?」


母は味噌汁を口に運んだ。


「あなたのお父さんは、昔から大きなことを考える人だったわ」


「日本を変えるつもり?」


「変える?」


母は笑った。


「人はね、何かを変えたいと言うとき、本当は自分の立つ場所を変えたいだけなのかもしれないわ」


「答えになってない」


「そうね」


母は素直に認めた。


「でも、あなたのお父さんは、自分が正しいと信じているのよ。そこが一番厄介なの」


「お母さんは、父さんに協力しているの?」


母は箸を置いた。


「セリナ。夫婦が同じ家に住んでいるからといって、同じ夢を見ているとは限らないのよ」


「じゃあ、金花は?」


母は、娘の目を見た。


「金花は、私のものだった」


過去形だった。


「今は?」


母は答えなかった。


セリナはその沈黙を、肯定とも否定とも受け取らなかった。


母は立ち上がり、食器を片づけ始めた。


「今日は泊まっていきなさい」


「帰るわ」


「そう」


母は引き止めなかった。


セリナは玄関で靴を履いた。


扉を開ける直前、母が背後から言った。


「セリナ」


振り返る。


母は廊下の奥に立っていた。


「もし、私が誰かを殺したとしたら」


母は微笑んでいた。


「あなたは、私を嫌いになる?」


セリナはすぐには答えなかった。


母の顔を見た。


幼い頃、熱を出した自分の額に手を当ててくれた人。


転んで泣いた自分を抱き上げてくれた人。


そして今、金花の話をするときだけ、別人のような目をする人。


「……分からない」


セリナは答えた。


母は、少しだけ寂しそうに笑った。


「それでいいのよ」


扉が閉まった。


*


セリナが去ったあと、母は台所へ戻った。


食器を洗い、布巾で手を拭く。


それから書斎へ向かった。


机の上には、例の木箱が置かれている。


母は鍵を取り出し、箱を開けた。


中は空だった。


二挺の金花は、そこにはない。


母は空の箱をしばらく見つめていた。


やがて、机の引き出しから小さな指輪を取り出した。


王冠と二頭の獅子。


セリナが写真で見た、あの指輪だった。


母はそれを指にはめた。


サイズは、ぴったりだった。


スマートフォンが鳴った。


画面には、番号の登録されていない着信が表示されている。


母は迷わず電話に出た。


「ええ。会ったわ」


相手の声は聞こえない。


「いいえ。何も渡していない」


短い沈黙。


母は空の木箱を見た。


「……まだ、あの子には早いわ」


相手が何かを言った。


母の笑みが消えた。


「違う」


声は静かだった。


「私は、あの子をあなたに渡さない」


電話が切れた。


母はしばらく動かなかった。


それから、空の木箱の蓋を閉めた。


王冠と二頭の獅子が、暗闇に沈んだ。


机の上には、木箱だけが残った。


金花は、そこにはなかった。

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