第26章 母の不在
父から渡された写真を、セリナはテーブルの上に置いた。
若い父と母。
その間に置かれた木箱。
箱の蓋には、王冠と向かい合う二頭の獅子が刻まれている。
そして、写真の裏に父の筆跡で書かれた一文。
「あの日、金花は二挺とも母さんの手に渡った」
セリナは、写真を裏返した。
もう一度、表に戻す。
何度見ても、写真の中の母は笑っていた。
楽しそうに。
まるで、これから何が起こるのか、すべて知っているように。
「……お母さん」
声に出してみた。
返事はない。
部屋の隅に置かれた銀花は、いつもと変わらぬ姿で彼女を待っていた。
セリナは椅子から立ち上がり、二挺を手に取った。
冷たい銀色。
一挺には、枯れた薔薇と翼のない天使。
もう一挺には、咲き誇る薔薇と翼のある天使。
二つを並べると、一つの絵になる。
彼女は銃を眺めた。
金花は母の手に渡った。
では、銀花は誰の手から、自分の手に渡ったのだろう。
その問いが浮かんだ瞬間、セリナは顔をしかめた。
「馬鹿馬鹿しい」
銀花は銀花だ。
誰が作ったのか。
誰が所有していたのか。
そんなことは、好きになる理由とは関係がない。
そう思ってきた。
今も、その気持ちは変わらない。
ただ――。
彼女は二挺をそっとテーブルに戻した。
写真の中の母の手元を拡大する。
指輪が見えた。
先日、実家で会ったとき、母は指輪をしていなかった。
いつも身につけていたはずの指輪を。
セリナはスマートフォンを取り出し、母に電話をかけた。
呼び出し音が三度鳴った。
『もしもし?』
いつもの声だった。
明るく、少しだけ甘えるような声。
「今、どこ?」
『家よ。どうしたの?』
「指輪、どうしたの」
短い沈黙。
『指輪?』
「いつもしてるでしょう。あの指輪」
『ああ……ちょっと、なくしちゃって』
母は笑った。
『あなた、そんなことまで気にしてるの?』
「なくしたの?」
『そうよ』
「いつ?」
『セリナ』
母の声から、笑みが消えた。
『あなた、いったい何を知りたいの?』
セリナは答えなかった。
知りたいことなら、いくらでもあった。
金花の所在。
銃砲店の主人を殺した人間。
刑事を殺した人間。
港の管理人を殺した人間。
そして、父が何を企んでいるのか。
しかし、今、彼女が聞きたいのは、たった一つだった。
「お母さんは、金花で人を殺したの?」
電話の向こうで、何かが置かれる音がした。
小さな金属音。
母が何かをテーブルに置いたのかもしれない。
あるいは、指輪を指先で転がしたのかもしれない。
『……誰に聞いたの?』
「答えて」
『あなたのお父さん?』
「答えてよ」
再び沈黙。
長かった。
やがて母は、いつもの明るい声に戻った。
『ねえ、セリナ。あなた、小さい頃、私に何て言ったか覚えてる?』
「覚えてない」
『嘘。覚えてるでしょう』
母は楽しそうに笑った。
『あなた、私の宝石箱を勝手に開けたことがあったの。中のアクセサリーを全部床に並べてね。どれが一番きれいか、真剣に考えていた』
セリナは黙っていた。
『そのとき、あなたが言ったのよ』
母は、娘の声をまねた。
『「きれいなものは、きれいなだけでいいの」って』
セリナの指が止まった。
それは、彼女が今も口にする言葉だった。
母は続けた。
『私は、あなたのそういうところが好きだった』
「……お母さん」
『でもね、セリナ』
声が低くなった。
『きれいなものを、きれいなまま持っていられる人ばかりじゃないのよ』
電話が切れた。
セリナは画面を見つめた。
かけ直そうとは思わなかった。
母は答えなかった。
だが、否定もしなかった。
彼女はテーブルの上の写真に目を落とした。
若い父と母。
木箱。
二挺の金花。
写真の母は、片手を箱の縁に置いている。
その指には、指輪があった。
セリナは写真を裏返し、父の筆跡を見た。
「あの日、金花は二挺とも母さんの手に渡った」
父は、母が金花を持っていたことを知っている。
母が何をしたのかも、知っているのだろうか。
それとも、父自身が金花を母に渡したことを、今になって悔いているのか。
考えても答えは出なかった。
セリナは上着を取り、銀花をケースに収めた。
出かけるつもりだった。
母のところへ。
今度は、父にも母にも邪魔されない場所で話をする。
そう決めて、玄関に向かった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
見知らぬ番号。
メッセージは一行だけだった。
「お母上は、金花を手放したことがありません」
セリナは立ち止まった。
続けて、画像が届いた。
古い写真だった。
薄暗い部屋。
テーブルの上に置かれた二挺の金花。
その向こうに、女性の手が写っている。
指には、見覚えのある指輪。
顔は写っていない。
セリナは写真を拡大した。
指輪の中央には、小さな王冠。
その左右に、二頭の獅子。
金花と同じ紋章だった。
彼女は息を止めた。
次のメッセージが届く。
「あなたのお母上は、今も二挺を所有しています」
セリナは、銀花のケースを見た。
自分が愛している二挺。
その由来を知りたいと思ったことなど、一度もなかった。
だが今は違う。
金花が欲しいのではない。
母が何をしたのか知りたい。
そして――母が、何を恐れているのか。
セリナはスマートフォンを握りしめた。
画面の中の金花は、薄暗い部屋で静かに輝いていた。
その金色は、不思議なほど温かく見えた。
まるで、誰かの帰りを待っているように。
セリナは画面を閉じた。
「……会いに行くわ、お母さん」
銀花のケースを持ち上げる。
玄関の扉を開けた。
廊下には誰もいなかった。
だが、エレベーターの扉が閉まる直前、彼女は気づいた。
郵便受けの上に、小さな封筒が置かれている。
宛名はない。
封筒の表には、あの紋章が押されていた。
王冠と、向かい合う二頭の獅子。
セリナは封筒を拾った。
中には、紙片が一枚。
そこには、見覚えのない筆跡で、こう書かれていた。
「金花は、母親のものではない」
その下に、もう一行。
「母親が、金花のものなのだ」
エレベーターの扉が開いた。
セリナは、しばらく動かなかった。
それから紙片を折りたたみ、ポケットにしまった。
銀花のケースを持つ手に、力がこもった。
彼女はまだ知らない。
自分がこれから会いに行く母親が、娘を守ろうとしているのか。
それとも、娘を金花へ導こうとしているのか。
そして、そのどちらであっても、母親自身は少しも矛盾を感じていないのかもしれないということを。
エレベーターの扉が、静かに閉じた。




