第25章 家族写真
父から連絡が来たのは、翌日の午後だった。
『明日の夕方、時間を取れる』
それだけだった。
場所も、用件も書かれていない。
セリナは返信した。
『わかった』
しばらくして、もう一通届いた。
『一人で来なさい』
セリナは画面を見つめた。
父は昔から、無駄な言葉を使わない人だった。だが、こんなふうに念を押すことは珍しい。
彼女はスマートフォンを伏せた。
机の上には、銀花が二挺並んでいる。
セリナはその前に座り、しばらく眺めた。
父に会う。
金花について尋ねる。
母についても。
それだけのことだ。
それなのに、まるで何かの境界線を越えるような気がした。
*
翌日、午後五時四十分。
待ち合わせ場所は、都内のホテルのラウンジだった。
父は約束の時刻より早く来ていた。
濃紺のスーツ。白いシャツ。控えめなネクタイ。髪には白いものが増えていたが、背筋は昔と変わらず伸びている。
セリナを見つけると、父は小さく手を上げた。
「久しぶりだな」
「この前、電話したでしょう」
「ああ」
父はそれ以上、言わなかった。
二人は向かい合って座った。
父はコーヒーを注文した。セリナは紅茶にした。
窓の外を車が流れていく。
しばらく、当たり障りのない話が続いた。
仕事はどうだ。
変わりないわ。
家はどうだ。
相変わらずよ。
母は元気か。
元気そうだったわ。
父はそこで、カップを置いた。
「母さんに会ったのか」
セリナは父を見た。
「どうして知ってるの?」
「お前が実家に行くことくらい、わかる」
「連絡したの?」
父は答えなかった。
セリナは紅茶を一口飲んだ。
「お父さん。金花のことを聞きたいの」
父の表情は変わらなかった。
「金花?」
「金色のブローニング・ハイパワーが二挺ある。王冠と二頭の獅子の刻印がある。昔、ベルリンから日本へ渡った可能性がある」
父は窓の外に目を向けた。
「よく調べたな」
その言葉に、セリナは息を止めた。
肯定だった。
少なくとも、否定ではなかった。
「持っているのね」
父は答えなかった。
「お父さん」
「持っていることと、所有していることは違う」
セリナは眉を寄せた。
「何それ」
「言葉どおりだ」
父は淡々と言った。
「物には来歴がある。誰かが手に入れ、誰かに渡し、また別の人間の手に移る。最後に手元にある人間が、最初からの所有者とは限らない」
「それで、今は誰のものなの?」
父は娘を見た。
「お前は、何が知りたいんだ」
セリナはすぐには答えられなかった。
金花の所在か。
母が人を殺していたという話の真偽か。
父がクーデターを画策しているという疑いか。
それとも、自分の家族がいつから、自分の知らない物語を生きていたのか。
「全部よ」
セリナは言った。
父は、ほんのわずかに目を伏せた。
「そうか」
*
「お母さんが金花を使っていたの?」
セリナは尋ねた。
父は、コーヒーを飲んだ。
「誰から聞いた」
「質問に答えて」
父はカップを置いた。
「お前の母さんは、昔から自分の判断で行動する人間だった」
「そういう話じゃない」
「わかっている」
父は静かに言った。
「だが、お前が聞きたいことと、私が話せることは同じではない」
セリナは父の目を見た。
そこに、嘘をついている人間特有の動揺はなかった。
もっと厄介なものがあった。
この男は、自分が何を話すべきか、何を話さないべきかを、すでに決めている。
「お父さんは、母さんが人を殺したことを知っていたの?」
父は長い沈黙のあと、言った。
「人は、自分の知らないところで、さまざまなことをする」
「答えになってない」
「そうだな」
父は否定しなかった。
セリナは、初めて父に腹が立った。
この人は昔からこうだった。
何かを隠すときも、相手を欺くときも、声を荒らげない。怒鳴らない。相手を威圧することさえしない。
ただ、話を終わらせる。
「お父さん」
セリナは言った。
「私、銀花を持っているの」
父は、初めてはっきりと娘を見た。
「知っている」
「……知ってたの?」
「お前が大切にしていることもな」
セリナは黙った。
父は続けた。
「よく手入れをしているそうだな」
「誰に聞いたの?」
「そんなことは重要ではない」
「私には重要よ」
父は、少しだけ困ったように笑った。
その表情は、セリナが幼いころに見た父の顔に似ていた。
「お前は、昔から変わらないな」
「お父さんもね」
二人は、しばらく見つめ合った。
そして父は、唐突に尋ねた。
「金花を見たいか」
セリナの指が止まった。
「……見られるの?」
「見るだけならな」
「どこにあるの?」
父は答えなかった。
代わりに、スーツの内ポケットから小さな封筒を取り出した。
テーブルの上に置く。
「これを持って帰れ」
セリナは封筒を見た。
「何?」
「お前が探しているものに関係がある」
「開けてもいい?」
「もちろんだ」
封筒の中には、古い写真が一枚入っていた。
白黒写真だった。
写っているのは、若いころの父と母。
二人は並んで立っていた。
父は軍服姿。母は白いワンピースを着ている。
母は笑っていた。
父は笑っていなかった。
その二人の間に、小さな木箱が置かれていた。
箱の蓋には、王冠と二頭の獅子。
セリナは写真を裏返した。
裏面には、父の字で短い一文が書かれていた。
「あの日、金花は二挺とも母さんの手に渡った」
セリナは顔を上げた。
「どういう意味?」
父は立ち上がった。
「今日は、ここまでだ」
「待って。お父さん!」
父は振り返った。
「セリナ」
その声は、いつもと同じだった。
「母さんを、あまり問い詰めるな」
「どうして?」
父はしばらく娘を見つめていた。
「お前が知っている母さんと、私が知っている母さんは、同じ人間だ。だが、同じ人間のすべてを知っている者はいない」
そう言って、父は背を向けた。
「気をつけて帰りなさい」
父はラウンジを出ていった。
セリナは追わなかった。
テーブルの上には、冷めた紅茶が残っていた。
*
夜。
自宅に戻ったセリナは、写真を机の上に置いた。
父と母。
木箱。
王冠と二頭の獅子。
そして、写真の裏に書かれた言葉。
「あの日、金花は二挺とも母さんの手に渡った」
父は金花を持っているのではなかったのか。
それとも、所有していることと、手元にあることは違うという、あの言葉の意味がここにあるのか。
セリナは写真を見つめた。
母が金花を使っていた。
父はそれを知っていた。
だが、父が何を望んでいるのかは、まだわからない。
スマートフォンが震えた。
見知らぬ番号からだった。
『お父上に会われましたね』
セリナは返信しなかった。
次のメッセージが届いた。
『あの人は、金花の所有者ではありません』
セリナは目を細めた。
さらに一通。
『金花を持つ者と、金花を所有する者は違う』
セリナはスマートフォンを置いた。
父と同じ言葉だった。
偶然だろうか。
それとも、父とこの人物は、どこかでつながっているのか。
彼女は写真を裏返した。
父の筆跡を、もう一度読む。
「あの日、金花は二挺とも母さんの手に渡った」
セリナは、ゆっくりと顔を上げた。
部屋の隅に置かれた鏡に、自分の姿が映っていた。
その向こうに、銀花が二挺並んでいる。
彼女は立ち上がり、銃のそばまで歩いた。
そして、静かに呟いた。
「……お母さんは、何をしたの?」
返事はなかった。
ただ、窓の外を走る車の光が、銀色の表面を一瞬だけ横切った。
まるで、遠い場所にある金花が、こちらを見ているようだった。




