第24章 母の指輪
セリナは、母親の写真を探すことにした。
スマートフォンに届いた画像を、何度も見返した。
二挺の金花。古い机。壁の時計。そして、銃のそばに置かれた女の手。
細い指輪。
見覚えがあった。
だが、写真の女が母親だと断定することはできない。指輪など、似たものはいくらでもある。
セリナは写真を保存し、拡大した。画質が粗く、指輪の細部は判別できない。銃の刻印も、光の反射に隠れていた。
それでも、彼女はその画像を削除できなかった。
母親が金花を持っていた。
それは、もはや単なる噂ではなかった。
*
翌朝、セリナは実家へ向かった。
両親が住む家は、郊外の静かな住宅地にある。低い塀。手入れされた庭。玄関脇の植木鉢は、母が季節ごとに花を植え替えていた。
門を開けると、庭の隅に白い花が咲いていた。
母は白い花が好きだった。
「汚れが目立つから、あなたは嫌いでしょう?」
以前、母にそう言われたことがある。
セリナは、花を眺めた。
「嫌いじゃないわよ」
誰も聞いていないのに、そう答えた。
玄関のチャイムを鳴らす。
しばらくして、母が出てきた。
「まあ、珍しい」
母は笑った。
昔と変わらない笑顔だった。髪は少し短くなっていたが、目元の明るさは同じだった。
「どうしたの? 連絡もなしに」
「近くまで来たから」
「嘘ね」
母は楽しそうに言った。
「あなた、用事がないと来ないもの」
「ひどい言い方」
「事実でしょう?」
二人は笑った。
玄関先で、母はセリナの顔をじっと見た。
「痩せた?」
「変わってないわよ」
「そうかしら」
母は娘の頬に触れようとした。
セリナは、ほんのわずかに身を引いた。
母の手が止まった。
一瞬だけ、二人の間に沈黙が落ちた。
「……何かあったの?」
母が尋ねた。
「ううん」
セリナは答えた。
「ちょっと聞きたいことがあるだけ」
*
居間は、昔のままだった。
ソファの位置も、壁の時計も、飾り棚の写真立ても変わっていない。
セリナはテーブルの前に座った。母は紅茶を用意し、向かい側に腰を下ろした。
「それで、何を聞きたいの?」
セリナはカップを持ち上げた。
紅茶から、ほのかな柑橘の香りがした。
母は昔から、紅茶に薄く切ったレモンを入れるのが好きだった。
「お母さん、昔、金色の拳銃を持っていた?」
母は微笑んだまま、カップを口元に運んだ。
「突然ね」
「持っていたの?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「答えてくれたら、理由を話す」
母は紅茶を飲んだ。
カップをソーサーに戻す音が、静かな居間に響いた。
「銃なんて、持っていないわよ」
即答だった。
セリナは母の顔を見た。
表情に変化はない。
声もいつもどおりだった。
「そう」
「何かの映画でも見たの?」
「そんなところ」
「あなた、昔から変なものに興味を持つわね」
母は笑った。
「お父さんに似たのかしら」
その言葉に、セリナは顔を上げた。
「お父さん?」
「ええ。あの人も、若いころは変わったものを集めていたのよ」
「何を?」
「さあ。古い時計とか、外国の記念品とか。私はあまり興味がなかったから」
母は紅茶を一口飲んだ。
「でも、銃は違うでしょう?」
セリナは尋ねた。
母の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
それから、母はカップを置いた。
「どうして、銃なの?」
今度は母が尋ねた。
セリナは答えなかった。
母は娘を見つめた。
その目には、怒りも恐怖もなかった。
ただ、何かを測るような静けさがあった。
「セリナ」
「何?」
「あなた、何を調べているの?」
セリナは母の顔を見た。
昔、母が叱るときも、同じ目をしていた。
大声を出すことはなかった。
笑顔を消すだけで、子供だったセリナには十分だった。
「昔の写真よ」
「写真?」
「一九三八年のベルリン。日本人の軍人と、ドイツ人の女性が写っている」
母は何も言わなかった。
「それから、港町の古い記録。王冠と二頭の獅子の印章。金色のブローニング・ハイパワー」
セリナは、ひとつずつ言葉を並べた。
「お母さん。何か知っているでしょう?」
母は娘を見つめていた。
やがて、微笑んだ。
「ずいぶん遠くまで行ったのね」
その言葉に、セリナの背筋が冷たくなった。
母は、何も否定しなかった。
*
「その銃は、どこにあるの?」
セリナが尋ねた。
母は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
庭の白い花が、ガラス越しに見える。
「あなたは、銃が好きなのね」
「ええ」
「美しいから?」
セリナは目を細めた。
「そうよ」
母は小さく笑った。
「あなたらしいわ」
それから、振り返った。
「でもね、セリナ。美しいものを好きになるのと、その美しさを自分のものにしたいと思うのは、同じことじゃないのよ」
セリナは黙っていた。
母は続けた。
「あなたの銀色の銃。あれは、あなたにとって何なの?」
「銀花よ」
「名前までつけたの?」
「悪い?」
「いいえ」
母は首を横に振った。
「いいと思うわ」
その言い方が、妙に優しかった。
セリナは母を見た。
「金花は?」
母の微笑みが消えた。
「……何ですって?」
「金色のブローニング・ハイパワー。二挺あるのよね」
母は答えなかった。
セリナは、母の右手を見た。
指輪はなかった。
いつも身につけていたはずの指輪が、そこにはなかった。
「お母さん」
「もう帰りなさい」
母は静かに言った。
「今日は疲れたわ」
「まだ何も聞いていない」
「聞く必要のないこともあるのよ」
「私の両親のことなのに?」
母は目を閉じた。
そして、再び開いたときには、いつもの母に戻っていた。
「お父さんに聞きなさい」
セリナは立ち上がった。
「お父さんは、金花を持っているの?」
母は答えなかった。
その沈黙が、答えのように思えた。
*
玄関まで母が見送った。
「また来てね」
「……うん」
母は娘のコートの襟を整えた。
「風邪をひかないように」
その手つきは、昔と同じだった。
セリナは、母の顔を見た。
この人が金花を持ち、誰かを殺していたのだろうか。
あの写真の手は、本当に母のものだったのだろうか。
もしそうなら、母はいつ、何のために銃を握ったのか。
そして、父はそれを知っていたのか。
「お母さん」
「何?」
「私のこと、好き?」
母は一瞬、驚いた顔をした。
それから、笑った。
「当たり前でしょう」
そう言って、セリナを抱きしめた。
温かかった。
いつもの母の匂いがした。
セリナは、母の肩に頬を寄せた。
何も変わっていない。
何も変わっていないように見えた。
「じゃあね」
セリナは家を出た。
門を閉める前に振り返ると、母はまだ玄関に立っていた。
笑顔で手を振っている。
セリナも手を振り返した。
門が閉まった。
*
母は、しばらく玄関に立っていた。
やがて笑顔を消し、家の中へ戻った。
居間を通り抜け、廊下の奥にある書斎へ向かう。
その部屋は、普段ほとんど使われていない。
母は机の前に立ち、引き出しを開けた。
中には、古い封筒が一通あった。
封筒を取り出し、裏返す。
表には何も書かれていない。
母は封を切った。
中から、小さな写真が二枚出てきた。
一枚目には、若い父親が写っていた。
二枚目には、金色の拳銃が二挺。
母は写真を机に並べた。
そして、指先で金花の片方をなぞった。
「……まだ、探しているのね」
誰に言ったのかは、わからない。
母は写真を封筒に戻した。
引き出しを閉める。
鍵をかけた。
そのとき、廊下の電話が鳴った。
母は書斎を出て、受話器を取った。
「はい」
相手の声は聞こえない。
母は静かに聞いていた。
やがて、微笑んだ。
「ええ。娘が来たわ」
沈黙。
「大丈夫よ。何も話していないから」
もう一度、沈黙。
母は窓の外を見た。
庭の白い花が、風に揺れていた。
「でも、そろそろ終わりにしましょう」
受話器を置いた。
母はしばらく、その場に立っていた。
それから、いつもの明るい声で呟いた。
「さて。夕飯の支度をしなくちゃ」
台所へ向かう足音が、家の中に響いた。
その家のどこにも、銃声はなかった。
まだ。




