第23章 父の肖像
午前九時十二分。
セリナは父親の勤務先に電話をかけた。
交換台の女性は、落ち着いた声で所属と氏名を尋ねた。セリナが名乗ると、わずかな間があった。
「三浦一佐にご用件をお伝えいたします」
「娘です。個人的な用件で」
「承知いたしました。少々お待ちください」
保留音が流れた。
セリナは窓の外を眺めた。向かいの建物では、清掃員が窓を拭いている。ガラスの向こうで、青い布が規則正しく上下していた。
やがて、電話がつながった。
『どうした』
父の声だった。
何年経っても変わらない声。低く、落ち着いていて、余計な感情がない。
「元気?」
『元気だ。お前は』
「まあまあ」
『何かあったのか』
セリナは少し笑った。
「父親って、娘から電話が来たら、まずそう聞くものなの?」
『そういうものかもしれんな』
「じゃあ、そういうことにしておいて」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
父は忙しいのだろう。
昔からそうだった。
家にいても、父は書類を読んでいた。休日には庭の手入れをしたが、終わると必ず書斎へ戻った。母は父の几帳面さをからかい、父は困ったように笑った。
その笑顔を、セリナは覚えている。
「今度、会えない?」
『いつだ』
「近いうち」
『予定を確認して連絡する』
「わかった」
電話を切ろうとした。
そのとき、セリナは口を開いた。
「お父さん」
『何だ』
「昔、銃を持っていた?」
沈黙があった。
ほんの一秒か、二秒。
それでも、セリナには長く感じられた。
『仕事で扱うことはある』
「そうじゃなくて。個人的に」
『なぜ、そんなことを聞く』
「ちょっと気になっただけ」
『お前が銃に興味を持っていることは知っている』
セリナは眉を寄せた。
「知ってたの?」
『昔から、物を眺めるのが好きだっただろう』
父はそれ以上、何も言わなかった。
セリナも尋ねなかった。
電話は、いつものように終わった。
何も変わらない会話だった。
それなのに、切れた電話を見つめながら、彼女はしばらく動けなかった。
*
午後、セリナは古い写真箱を取り出した。
実家から持ってきたものだ。引っ越しの際、母が「捨てるなら捨てていいわよ」と言って渡した。
箱の中には、家族旅行の写真、入学式、運動会、誕生日のケーキ。
母は写真を撮るのが好きだった。
父は撮られるのが苦手だった。
それでも、母に促されると渋々カメラの前に立った。制服姿の父。休日の父。海辺で目を細めている父。
どの写真でも、父はどこか所在なさげだった。
セリナは一枚ずつ写真をめくった。
ある写真の前で、手が止まった。
家族三人が庭に立っている。
セリナはまだ幼い。母は笑っている。父はいつものように、少し困った顔をしていた。
母の手が父の腕に添えられている。
その指には、細い指輪があった。
セリナは写真を近づけた。
指輪の模様までは読み取れない。
彼女は写真を裏返した。
日付と、母の字で短い言葉が書かれていた。
『家族で過ごした、最後の夏』
セリナは動きを止めた。
最後の夏。
何のことだろう。
その年、家族に何かあったのだろうか。
記憶をたどってみたが、特別な出来事は思い出せなかった。海に行った。母が日焼けして、父が帰りの車で眠ってしまった。夕食に魚を食べた。
それだけだった。
セリナは写真を箱に戻そうとした。
そのとき、底にもう一枚、別の写真があるのに気づいた。
古い写真だった。
色が褪せ、端が丸くなっている。
写っていたのは父だった。
若いころの父。制服姿で、数人の男たちと並んでいる。背景は建物の前らしいが、看板は見えない。
父は笑っていなかった。
その手に、何かがあった。
セリナは写真を拡大した。
小さな金属の光。
拳銃だ。
写真の解像度は低く、細部はわからない。しかし、グリップの形状とスライドの輪郭には見覚えがあった。
ブローニング・ハイパワー。
セリナは息を止めた。
父が銃を持っていた。
それ自体は不思議ではない。自衛官なのだから、拳銃を扱う機会はあっただろう。
だが、写真の拳銃は、支給品のようには見えなかった。
金色に輝いていた。
*
夜になっても、セリナは写真を手放せなかった。
金花。
父親の所有物。
母親が使用していたという、見知らぬ情報。
それらが、一本の線でつながり始めている。
しかし、線の先に何があるのかは、まだわからない。
彼女は父親にもう一度電話をかけようとした。
だが、やめた。
電話で聞いても、父は答えないだろう。
いや、答えないのではない。
父は、答える必要がないと判断すれば、何も話さない人だった。
セリナは写真を机の上に置いた。
隣には銀花が二挺、並んでいる。
金と銀。
父と娘。
そして、写真に写っていない母。
セリナは、母のことを考えた。
母は明るい人だった。
突然歌い出す。気に入った服を見つけると、色違いを全部買おうとする。父が難しい顔をしていると、背後から抱きついて「また国を救ってるの?」と笑う。
父はいつも、呆れたような顔をしていた。
それでも、母を振りほどくことはなかった。
あの母が、人を殺していた。
金花の二挺拳銃を持って。
セリナは写真の中の父を見た。
彼は何も語らない。
ただ、金色の拳銃を持ち、まっすぐ前を見ている。
その表情に、セリナは初めて、父の知らない一面を見た気がした。
スマートフォンが震えた。
見知らぬ番号から、画像が一枚届いていた。
古い室内の写真だった。
机。椅子。壁に掛けられた時計。
そして、机の上に並べられた二挺の金色の拳銃。
写真の隅に、女性の手が写っていた。
指には、細い指輪。
セリナは自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
母の指輪と、よく似ていた。
メッセージが続けて届いた。
『あなたのお母上は、金花を知っていたのではありません』
セリナは画面を見つめた。
次の一文が現れた。
『金花を使っていたのは、あなたのお母上です』
部屋の中は静かだった。
時計の針が進む音がした。
セリナは写真を拡大した。
女性の顔は写っていない。
ただ、指輪をした手が、二挺の拳銃のそばに置かれている。
彼女はスマートフォンを机に置いた。
そして銀花を見た。
「……お母さん」
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
返事はなかった。
もちろん、返事などあるはずがなかった。
セリナは銀花を見つめ続けた。
初めて、銀花の美しさだけでは済まされない何かが、自分の前に立っているような気がした。
だが、それでも。
銀色の銃は、美しかった。
セリナは目を逸らさなかった。




