第22章 管理人の死
港町に戻ったのは、翌日の午後だった。
駅前の商店街は昼食時を過ぎて閑散としていた。魚屋の店先に積まれた発泡スチロールの箱から、潮の匂いが漂ってくる。セリナは駅のコインロッカーに荷物を預け、古い倉庫へ向かった。
昨夜から、管理人の携帯電話に何度か連絡を入れていた。応答はなかった。
別に、心配していたわけではない。
そう自分に言い聞かせながら、彼女は倉庫の角を曲がった。
道路の向こうに、パトカーが二台停まっていた。
黄色い規制線が張られている。
セリナは足を止めた。
倉庫の入口に、制服警官が立っていた。その奥には鑑識の車両が見える。出入りする人間の表情は一様に硬かった。
彼女は近くの自動販売機の前に立ち、缶コーヒーを買った。
飲む気はなかった。
「何があったんですか」
通りかかった中年の男性に尋ねると、男は規制線の向こうを見た。
「人が死んだらしいよ。倉庫の管理人さんだって」
セリナは缶を握ったまま、男を見た。
「事故ですか」
「さあね。警察があれだけ来てるんだ。普通じゃないんだろう」
男はそれ以上話す気がないらしく、商店街の方へ歩いていった。
セリナは缶コーヒーのプルタブを開けた。
小さな音がした。
一口飲んだ。ぬるかった。
管理人は、あの古い箱について何かを知っていた。写真を見せたとき、一瞬だけ表情が変わった。あれは単なる驚きではなかった。
何かを思い出した顔だった。
あるいは、思い出してはいけないことを思い出した顔。
セリナは缶をゴミ箱に捨て、倉庫を離れた。
*
警察署へ行くつもりはなかった。
彼女が管理人と接触したことを警察に知られれば、また面倒な質問を受ける。銀花のことも、金花のことも、いずれ説明を求められるだろう。
そして、説明できることはほとんどなかった。
彼女は海沿いの道を歩いた。
倉庫の裏手には、小さな船着き場がある。使われなくなった係留柱に、古いロープが巻きついていた。海面は鈍い鉛色で、沖を走る貨物船の輪郭が霞んでいる。
一九三八年。
あの年に、この港から何かが運び出された。
記録には「機械部品」とあった。
だが、誰かが送ってきた写真には、金花が写っていた。
管理人は、それを知っていたのだろうか。
それとも、彼は単に、金花の存在を知る人間の一人にすぎなかったのか。
セリナはポケットからノートを取り出した。
自分で書き込んだ数字と、写真の隅に写っていた文字列を見比べる。何度確認しても、意味はわからなかった。
ノートを閉じたとき、スマートフォンが震えた。
見知らぬ番号だった。
添付された画像は一枚。
古い書類の写真だった。
黄ばんだ紙の中央に、会社の印章が押されている。王冠と、向かい合う二頭の獅子。
その下に、手書きの文字があった。
「三浦家預かり品」
セリナは画面を拡大した。
その文字の下には、さらに小さな一文が添えられていた。
「返却先本人以外、開封を禁ず」
日付は読めない。
差出人の名前もない。
次のメッセージが届いた。
『管理人は、あなたに何を見せましたか』
セリナは返信しなかった。
すぐに、もう一通。
『彼は、二挺目の所在を知っていました』
セリナは海を見た。
二挺目。
金花のことだろう。
彼女は画面に指を置き、短く打ち込んだ。
『誰が彼を殺したの?』
送信。
返事はすぐには来なかった。
五分ほどして、スマートフォンが再び震えた。
『その質問をするのは、まだ早い』
セリナは鼻で笑った。
「便利な言葉ね」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
わからないことがあると、誰もが謎めいた言葉で煙に巻こうとする。
銃の話になると、なおさらだった。
王を狩る者。
所有者のいない銃。
二挺は、同じ場所に戻る。
まるで誰かが、何十年も前に書いた台本を、今になって演じさせているようだった。
彼女はスマートフォンをしまった。
管理人は死んだ。
古い記録は失われたかもしれない。
そして、自分の知らないところで、誰かが金花をめぐる物語を動かしている。
セリナは、ふと父親のことを思った。
自衛官だった父。
昔、父の書斎に入ったことがある。机の上には書類が整然と積まれ、壁には制服姿の父の写真が飾られていた。
あの部屋で、父が銃を持っているところを見た記憶はない。
そもそも、父が銃を好きだったのかどうかさえ、彼女は知らなかった。
セリナは立ち止まった。
海風が髪を揺らす。
「……お父さん」
声に出すと、その呼び方は思いのほか幼く響いた。
彼女はすぐに口を閉じた。
スマートフォンが、また震えた。
今度は画像ではなかった。
『お父上に、お尋ねください』
セリナはしばらく画面を見つめていた。
それから、ゆっくりとスマートフォンをポケットにしまった。
港の向こうで、貨物船が汽笛を鳴らした。
彼女は振り返らなかった。
*
その夜、セリナは東京の自宅に戻った。
玄関の鍵を開け、明かりをつける。
部屋は出発したときと同じだった。
テーブルの上には、銀花を包んでいた布が畳まれている。彼女はそれを手に取り、しばらく眺めた。
銀花は、まだここにあるはずだった。
いや、ある。
彼女は自分にそう言い聞かせ、布を元の場所に戻した。
スマートフォンを取り出し、父親の連絡先を開く。
最後に電話したのは、いつだっただろう。
画面の中の名前を見つめながら、セリナは考えた。
金花が父親の手にあるのなら、父親は何を知っているのか。
一九三八年の写真について。
港町の倉庫について。
そして、銀花について。
彼女は通話ボタンに指を伸ばした。
だが、押さなかった。
まだ聞くべきことが、うまく言葉にならなかった。
セリナは画面を閉じた。
部屋の中は静かだった。
テーブルの上に、銀色の拳銃が二挺並んでいる。
彼女はそれらを見つめた。
「もう少しだけ、待っていて」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
そのとき、スマートフォンの画面が再び点灯した。
新しいメッセージが一件。
差出人は、登録されていない番号。
本文は、たった一行だった。
『金花の所有者は、あなたのお父上です』
セリナは動かなかった。
知っていたはずの事実が、初めて現実の重さを持って目の前に置かれた。
彼女は画面を伏せた。
そして、銀花を見た。
銀色の表面に、室内灯が細く映っている。
美しかった。
それだけは、何も変わらなかった。




