第20章 港町の記憶
港町は、地図に記された場所よりも、少しだけ寂れていた。
駅前には、かつて商店街だったらしい通りが残っていた。シャッターの下りた店。色褪せた看板。軒先に吊るされた、錆びた風鈴。
セリナは改札を出ると、スマートフォンで地図を確認した。
海までは歩いて二十分ほど。
目印は、古い倉庫と、その脇に残された石造りの標柱。
それだけだった。
彼女は地図を折り畳み、バッグにしまった。
肩が軽い。
いつもなら、銀花の入ったケースが肩に掛かっている。長年、当たり前になっていた重みがない。
忘れ物をしたような気がして、セリナは一度だけ振り返った。
もちろん、そこには何もない。
「……慣れないわね」
誰に言うでもなく呟き、歩き始めた。
海沿いの道に出ると、潮の匂いが強くなった。
漁船が数隻、港の内側に繋がれている。岸壁には新しいコンクリートが打たれ、その向こうに、古い倉庫が一棟だけ取り残されていた。
壁面の塗装は剥がれ、窓は板で塞がれている。入口には新しい南京錠が掛かっていた。
地図の目印と一致していた。
セリナは倉庫の周囲を歩いた。
裏手には雑草が伸び、壁の下に古い石の標柱が半分埋まっていた。
表面に文字が刻まれている。
風化がひどく、ほとんど読めない。
ただ、中央に刻まれた紋章だけは、妙にはっきりと残っていた。
王冠。
その下に、向かい合う二頭の獅子。
セリナは足を止めた。
「……また、あなたたち?」
しゃがみ込み、スマートフォンで写真を撮った。正面から一枚。角度を変えて、もう一枚。
それから、古い写真の束を取り出した。
ベルリンで撮影されたという写真。二挺の銃が写っていた写真。背景の片隅に、かすかな記号のようなものがあった。
似ている。
しかし、同じだと言い切るには情報が足りなかった。
セリナは二枚の写真を見比べた。
画面の中の紋章は、ぼやけたままだった。
「もう少し、きれいに撮っておいてほしかったわね」
彼女は立ち上がった。
倉庫の隣には、小さな事務所があった。建物自体は新しいが、入口の脇に掲げられた看板には、古い会社名が残されている。
現在の管理会社とは別の名前らしい。
窓口を訪ねると、年配の男性が出てきた。
「この倉庫について、お尋ねしたいことがあるんですが」
セリナは、標柱の写真を見せた。
男性は画面を見たあと、少しだけ眉を上げた。
「どこで、これを?」
「外の標柱にありました」
「まだ残っていたのか」
男性は、懐かしむように写真を見つめた。
「昔の会社の印ですよ。港で荷物を扱っていた会社です。もう何十年も前に解散しましたがね」
「何を運んでいた会社ですか?」
「時代によって違ったでしょう。戦前は海外との取引もあったと聞いています」
「海外?」
「この港から出ていったものもあれば、入ってきたものもあった。昔のことです」
男性はそれ以上、詳しく話そうとしなかった。
セリナは少し考えてから、別の写真を見せた。
古い木箱。その表面に刻まれた王冠と二頭の獅子。
「この紋章のついた箱に、心当たりはありませんか」
男性の視線が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……古い荷箱ですか」
「そうです。銃が入るくらいの大きさです」
男性は写真から目を離した。
「昔の写真に写っていたかもしれません」
「写真は残っていますか?」
「会社の資料が、どこかに保管されているはずです。ただ、整理されていない。見つかるかどうかは分かりません」
「見せていただけませんか」
男性はすぐには答えなかった。
窓の外で風が吹いた。どこかで金属板が鳴った。
「何を調べているんです?」
セリナは答えを選んだ。
「古い銃についてです」
男性は笑わなかった。
「そうですか」
その反応が、かえって気になった。
「この紋章に関係する銃を、ご存じなんですか?」
「いいえ。私は、ただの管理人ですから」
男性はそう言って、窓の外へ目を向けた。
「資料は別の場所にあります。すぐには出せません。連絡先を置いていってください」
セリナは名刺を一枚、机の上に置いた。
男性はそれを裏返した。
何も書かれていない裏面を、しばらく見ていた。
「連絡がつく番号も、書いておいてください」
「分かりました」
セリナは番号を書き足した。
男性は名刺を引き出しにしまった。
「資料が見つかったら連絡します」
「お願いします」
事務所を出ると、海は少し暗くなっていた。
セリナは岸壁に立ち、港を眺めた。
古い倉庫。石の標柱。解散した会社。
それらが金花に繋がっているという証拠は、まだ何もない。
それでも、ここまで来たことを後悔してはいなかった。
金花そのものが見つからなくてもいい。
金花を持っていた人間の記憶。二挺の銃が生まれた場所。あるいは、誰かが金花について語り始めた、その最初の場所。
何かひとつでも分かれば、それでよかった。
――本当に?
セリナは自分の考えに、ふと疑問を覚えた。
彼女が欲しいのは、情報なのだろうか。
それとも、金花そのものなのだろうか。
答えは出なかった。
彼女は駅へ向かった。
その夜、宿の部屋で写真を整理していると、昼間に撮影した標柱の画像に、妙なものが写っていることに気づいた。
紋章の下。
石の表面に刻まれた、細い文字列。
肉眼では、ほとんど判別できなかったものだ。
画像を拡大すると、数字が四つ並んでいた。
一九三八。
その下には、さらに小さな文字があった。
セリナは画面を見つめた。
「……ベルリンと同じ年?」
偶然だろうか。
彼女は画像を保存した。
それから、無意識に手を伸ばした。
いつもなら、その手の先には銀花がある。
写真を見比べたあと、片方を手に取り、王冠の刻印を確かめる。彫りの深さを見て、二挺を並べて、何も変わっていないことに安堵する。
今日は、それができない。
銀花は、自宅の部屋に置いてきた。
セリナは自分の手を見た。
「……帰ろうかしら」
そう呟いてから、すぐに首を振った。
まだ何も分かっていない。
彼女はもう一度、スマートフォンの画面を見た。
一九三八。
数字の下にある文字は、まだ読み取れなかった。
窓の外で、港の汽笛が鳴った。
セリナは地図を広げ直した。
港町は、金花のありかを教えてくれたのではない。
金花が、いつから物語になり始めたのか。
その手掛かりを残していたのだ。
彼女は地図を畳み、机の上に置いた。
そのとき、ふいに自宅の部屋が頭に浮かんだ。
机の上に並べてきた二挺の銀花。
誰もいない部屋。
閉めたはずの窓。
セリナは、その想像を振り払うようにスマートフォンを伏せた。
まだ、何も起きてはいない。
何も。
そう自分に言い聞かせる必要があること自体、彼女には少し不思議だった。




