第19章 銀花のない部屋
部屋に帰ると、セリナは最初に窓を開けた。
雨の匂いがした。
空気を入れ替えるためだった。別に、何か嫌なものを持ち帰ったわけではない。警察署の空気が肌にまとわりついているような気がしただけだ。
彼女は上着を脱ぎ、手を洗った。
それから、テーブルの前に座った。
銀花があった。
二挺の銃は、いつもと同じ場所に並んでいる。
セリナは、ほっとした。
その感情に気づくと、少し腹が立った。
自分は何を期待していたのだろう。警察に呼ばれたくらいで、銀花がどこかへ消えてしまうとでも思ったのか。
彼女は片方を手に取り、表面を眺めた。
金色の銃を探している。
殺人事件の容疑を晴らすために。
そう自分に説明してきた。
だが、最初に金花の写真を見たとき、彼女が感じたものは恐怖でも義務感でもなかった。
見たい。
ただ、それだけだった。
本物を見たい。手に取ってみたい。彫刻の細部を確かめたい。金色の仕上げがどんな光を返すのか、自分の目で確かめたい。
その欲望が、いつの間にか無実の証明と結びついていた。
「ずるいわね」
彼女は銃に向かって言った。
誰に対して言ったのか、自分でも分からなかった。
*
翌朝、玄関のチャイムが鳴った。
セリナはドアを開ける前から、相手が誰なのか分かっていた。
昨日の刑事だった。
「また来たの?」
「昨日、お伝えし忘れたことがありまして」
「電話で済ませられないこと?」
「できれば、直接お話ししたいと思いました」
セリナは彼を部屋に入れなかった。
「ここでどうぞ」
刑事は、彼女の背後に目を向けなかった。
「銃砲店店主の事件について、引き続き捜査しています。あなたが事件に関係していると断定したわけではありません。ただ、今後もお話を伺うことがあると思います」
「それは昨日も聞いたわ」
「もう一つ。あなたが追っている黄金の銃について、何か新しい情報を得たら、知らせてください」
セリナは眉を上げた。
「私が探していると、どうして思うの?」
「あなた自身が、昨日そう話しました」
「そうだったわね」
「危険な人物が関わっている可能性があります。単独で接触するのは避けてください」
「忠告?」
「そうです」
「親切なのね」
「仕事です」
セリナは笑った。
「それ、便利な言葉ね」
刑事は表情を変えなかった。
「あなたが何を好きでも、それ自体を理由に疑うつもりはありません。ただ、人が死んでいます。そこは忘れないでください」
「忘れていないわ」
「なら、いいのですが」
刑事は名刺を差し出した。
セリナは受け取った。
彼が帰ろうとしたとき、彼女は呼び止めた。
「刑事さん」
「はい」
「もし、犯行に使われた銃が見つかったら、私の疑いは晴れると思う?」
男は少し考えた。
「その銃が事件にどう関係しているのか、誰が持っていたのか。それを調べなければ何とも言えません」
「そう」
「ただ、何かを見つけることは、何も見つからないよりは前進です」
「あなた、希望を持たせるのが下手ね」
「希望を持たせるのは、私の仕事ではありませんから」
彼は頭を下げ、階段を下りていった。
セリナは名刺を眺めた。
それから、ドアを閉めた。
*
午後、セリナは古い資料を広げた。
ベルリンで撮影された写真。
三浦家に関する記録。
王冠と二頭の獅子。
そして、銀花とよく似た二挺の拳銃が写った古い写真。
これまで彼女は、写真の細部を何度も確認してきた。
今度は、銃ではなく、その周囲を見た。
背景の壁。木箱の角。写真に写り込んだ布の模様。
古い写真には、銃以外にも何かが残っている。
彼女は拡大鏡を取り出した。
写真の隅に、かすかな文字が見えた。
最初は汚れだと思った。
しかし、角度を変えて見ると、文字のようなものが浮かび上がった。
数字が四つ。
その後ろに、短い記号。
日付かもしれない。整理番号かもしれない。撮影した場所を示す符号かもしれない。
セリナはノートに書き写した。
それが何を意味するのかは分からない。
だが、これまで彼女が注目していたのは、いつも銃そのものだった。
美しい彫刻。仕上げ。グリップ。王冠。
写真に写っているもののうち、銃だけがすべてではない。
そんな当たり前のことに、今さら気づいた。
彼女は別の写真を取り出した。
黄金の銃が写っている。
背景には、木箱と、古い机の端。
机の端に、同じ記号があった。
セリナは写真を並べた。
偶然かもしれない。
誰かが後から同じ記号を書き込んだ可能性もある。
それでも、二つの写真は、何かでつながっているように見えた。
「……やっと、少し面白くなってきたわね」
彼女はノートを閉じた。
*
夕方、セリナは銀花を手に取った。
いつもなら、細部を眺めるだけで時間を忘れる。
今日は違った。
彼女は二挺を並べ、彫刻を見比べた。
枯れた薔薇。
咲いた薔薇。
翼のない天使。
翼のある天使。
そして、王冠。
一方の王冠には、先端が一つ欠けている。
彼女はそこに指を近づけたが、触れなかった。
古い写真では、二挺とも王冠の先端が完全だった。
現在の銀花には、傷ひとつない。
それなのに、王冠の先端だけが欠けている。
いつ、どうしてそうなったのか。
彼女は知らない。
修理の痕跡も見当たらない。自分が手にしてから、そんな部分が変わった記憶もない。
「あなた、いつからそうなの?」
返事はない。
セリナは、もう一挺を見た。
こちらの王冠は完全だった。
二挺を並べると、彫刻の線がつながる。
二つで一つ。
それは人間が考えたデザインにすぎないのかもしれない。
しかし、もしそうなら、なぜ同じ意匠が黄金の銃にもあるのだろう。
彼女は二挺をテーブルに戻した。
そして、スマートフォンを手に取った。
昨日の謎のメッセージを開く。
「一挺目は、もう見つかっています」
「あなたが探しているのは、二挺目ではありません」
セリナは画面を見つめた。
「……私が探しているのは、銃じゃないってこと?」
言葉にすると、ひどく馬鹿げて聞こえた。
彼女は笑った。
それでも、その言葉は頭から離れなかった。
*
夜、もう一度メッセージが届いた。
今度は画像だった。
古い地図。
日本の、どこかの港町らしい。
地図の一部に、小さな丸印がついていた。
その下に文章があった。
「金花は、遠い国から来たのではありません」
セリナは画像を拡大した。
地名はかすれていて、読み取れない。
だが、海岸線の形には見覚えがあった。
以前、古い資料を調べたときに見た地図に似ていた。
彼女はノートを開き、先ほど書き写した数字を確認した。
一致するかどうかは、まだ分からない。
それでも、何かが動き始めた気がした。
彼女は銀花を見た。
「行ってくるわ」
いつものように、二挺の銃に話しかけた。
けれど、今回は少し違った。
彼女は銃を持ち出さなかった。
代わりに、写真とノートを鞄に入れた。
金花を見つけるために。
そして、自分が何を探しているのかを知るために。
玄関を出る直前、彼女は一度だけ振り返った。
部屋の中には、銀花が残されていた。
二挺の銃は、暗い部屋の中で静かに並んでいた。
窓から差し込む街灯の光が、銀色の表面をかすかに照らした。
その光が消えたとき、二挺の銃は、どちらも同じ色に見えた。




