第16章 最後の約束
刑事から連絡があったのは、翌日の午後だった。
『明日、会えるか』
短いメッセージだった。
場所も時間も書かれていない。
セリナは返信した。
『何の話?』
しばらくして、返事が届いた。
『お前の持っているものについて』
セリナは画面を見つめた。
それから、机の上の銀花に目を向けた。
『わかった』
返信はそれだけにした。
*
待ち合わせ場所は、都内の古い喫茶店だった。
駅から少し離れた路地にあり、店内には昼間でも薄暗い影が残っていた。壁には色あせた映画のポスターが掛かり、カウンターの奥では古い時計が音を立てていた。
刑事は窓際の席に座っていた。
コーヒーには、まだ手をつけていない。
「遅かったな」
「約束の時間には間に合ったわ」
「そういう意味じゃない」
セリナは向かいに座った。
「顔色が悪いわね」
「お前に心配されるとは思わなかった」
「私だって、人並みに心配くらいするわ」
「誰を?」
「さあ」
刑事は、ようやくコーヒーを飲んだ。
「相変わらずだな」
「あなたもね」
二人はしばらく、どうでもいい話をした。
天気のこと。値上がりしたコーヒーのこと。店主が殺されてから、この辺りを歩く人が少し減ったこと。
どれも、今日ここへ来た理由とは関係がなかった。
だが、刑事は本題を切り出さなかった。
セリナも急かさなかった。
やがて、刑事が言った。
「お前、銃を持っているな」
セリナは表情を変えなかった。
「何のこと?」
「その返事は聞き飽きた」
「なら、質問しなければいいのに」
「そうもいかなくなった」
刑事はテーブルの上に、一枚の写真を置いた。
古い写真だった。
二挺の黄金銃が、黒い布の上に並べられている。
セリナは写真を見た。
「どこで手に入れたの?」
「事件の関係資料だ」
「誰の事件?」
「まだ、事件と呼べるかどうかもわからん」
「ずいぶん曖昧ね」
「わかっていることが少ないんだ」
刑事は写真を指で押さえた。
「これとよく似た銃が、過去の複数の記録に出てくる。記録の年代も、場所も、所有者とされる人間も一致しない」
「それで?」
「その銃に関係した人間が、何人か死んでいる」
セリナは顔を上げた。
「何人?」
「正確な数は、まだ言えない」
「あなたが知らないだけ?」
「そうだ」
刑事は、あっさり認めた。
「俺は何でも知っているわけじゃない」
その言葉は、セリナには意外だった。
彼はいつも、必要な情報だけを持って現れた。知らないことを知らないと言う姿を、彼女はほとんど見たことがなかった。
「あなた、怖いの?」
セリナが尋ねた。
刑事はすぐには答えなかった。
「怖くない人間がいると思うか」
「あなたは、怖くても仕事をする人だと思っていた」
「怖いから、仕事をするんだ」
彼は写真を裏返した。
「何も怖くなければ、確かめる必要もない」
セリナは、黄金銃の写真をもう一度見た。
「私の銀花も、その記録にあるの?」
「……よく似た銃がある」
「同じものではない?」
「わからん」
「では、何を聞きたいの?」
刑事は彼女を見た。
「お前は、何を知っている?」
セリナは少し考えた。
「二挺の黄金銃があるらしいこと。王を狩る者という言葉。所有者がいないという記録。それから、金花を探している人間が、私以外にもいること」
「それだけか」
「それだけよ」
「本当に?」
セリナは微笑んだ。
「あなたは私を信用していないのね」
「信用と確認は別だ」
「便利な言葉ね」
「お互い様だと言っただろう」
刑事は写真をしまった。
「セリナ。俺はお前が何を持っていようと、何を好きだろうと、それだけで捕まえたいとは思わん」
「ずいぶん親切ね」
「だが、人が死んでいる。俺は刑事だ。そこだけは変えられない」
セリナは黙っていた。
「もし、お前が何かを知っているなら話してくれ。お前自身が関係していないなら、それを証明するためにもだ」
「私が関係していたら?」
刑事は彼女を見た。
「そのときは、そのときだ」
「私を逮捕するの?」
「必要なら」
セリナは、ゆっくりとうなずいた。
「そう」
怒ってはいなかった。
むしろ、少し安心したように見えた。
この男は、最後のところで嘘をつかなかった。
彼女が何を愛していようと、それを理由に見逃すことはできない。
そのことを、彼は最初から知っていたのだ。
「一つ、お願いがあるの」
「何だ」
「もし私が捕まったら、銀花を粗末に扱わないで」
刑事は目を閉じた。
「……お前な」
「大切なものなの」
「わかっている」
「本当に?」
「だから困っているんだ」
刑事は立ち上がった。
「今日はここまでだ。しばらく俺から連絡がなくても、探し回るな」
「どうして?」
「仕事だ」
「それは答えになっていないわ」
「今は、それしか言えない」
彼は伝票を取り、会計を済ませた。
店を出る直前、振り返った。
「セリナ」
「何?」
「銀花を、誰にも渡すな」
彼女は眉をひそめた。
「さっきと言っていることが違うわ」
「そうだな」
刑事は苦笑した。
「俺も、どうかしている」
それが、彼女の知る最後の彼の笑顔になった。
*
その夜、セリナは刑事からの電話を待っていた。
約束したわけではない。
それでも、連絡が来るような気がしていた。
机の上には銀花が二挺並んでいる。
セリナは布を手に取ったが、磨き始めなかった。
午後十一時四十二分。
スマートフォンが震えた。
刑事からではなかった。
添付された画像は、どこかの駐車場を写していた。
濡れたアスファルト。
白い照明。
その端に、見覚えのある車が停まっている。
刑事の車だった。
画像の下には、短い文章があった。
『約束の時間に、彼は来ない』
セリナはすぐに電話をかけた。
呼び出し音が鳴った。
一回。
二回。
三回。
応答はなかった。
彼女はもう一度かけた。
やはり、応答はなかった。
セリナはコートを取った。
机の上の銀花を見た。
一瞬、手を伸ばしかけた。
それから、何も持たずに部屋を出た。
*
駐車場には、パトカーが二台停まっていた。
規制線の向こうで、鑑識が動いていた。
刑事の車は、入口から離れた区画にあった。
運転席側の窓は割れていなかった。ドアにも目立った損傷はない。車内の灯りだけが点いていた。
セリナは規制線の手前で立ち止まった。
制服警官が近づいてきた。
「ここから先は立ち入り禁止です」
「中にいる刑事に用があるの」
「お名前は?」
セリナは答えなかった。
警官は彼女を見た。
その目が、ほんの少し変わった。
「……あなたが、セリナさんですか」
彼女は何も言わなかった。
警官は無線に手を伸ばした。
そのとき、奥から別の警察官が出てきた。
「こちらへ」
セリナは、その男の後についていった。
駐車場の隅に、黒いコートが落ちていた。
刑事のものではなかった。
そのすぐそばに、透明な証拠袋が置かれている。
中には、薬莢が一つ入っていた。
セリナは足を止めた。
警察官が言った。
「確認したいことがあります」
彼女は薬莢を見つめた。
「何を?」
「あなたと、亡くなった刑事との関係についてです」
セリナは顔を上げた。
「亡くなった?」
警察官は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
セリナは動かなかった。
雨が降り始めていた。
彼女は、刑事の最後の言葉を思い出した。
――銀花を、誰にも渡すな。
どうして、そんなことを言ったのだろう。
何から彼女を守ろうとしていたのだろう。
そして、彼は何を知っていたのだろう。
セリナは規制線の向こうを見た。
刑事の姿は、どこにもなかった。
彼女の知っている世界から、また一人、人間が消えた。
今度は、彼女を守っていた人間だった。




