第14章 硝煙のない現場
その日、セリナは銀花を磨かなかった。
理由はなかった。
朝から雨が降っていた。窓ガラスを伝う水滴を眺めているうちに、いつもの時間を逃しただけだ。
机の上には、印刷した黄金銃の写真が何枚か並んでいた。
王冠。二頭の獅子。棘のある薔薇。
写真によって、刻印の細部が微妙に違っていた。あるものでは王冠の先端が欠け、別のものでは完全な形を保っている。光の加減で説明できる違いもあれば、そうではないように見える違いもあった。
セリナは一枚を手に取った。
「あなたたち、ずいぶん人気者ね」
返事はなかった。
もちろん、返事など期待していない。
彼女は写真を机に戻し、コーヒーを飲んだ。
そのとき、スマートフォンが震えた。
知らない番号ではなかった。
以前から、ときどき短い連絡を寄越してくる男。銃雑誌店の主人とも面識がある、あの刑事だった。
『今日、店に行くな』
それだけだった。
セリナは画面を見つめた。
『どうして?』
返信はすぐには来なかった。
三分ほどして、短い文章が届いた。
『店主が死んだ』
セリナはスマートフォンを置いた。
それから、もう一度手に取った。
『いつ?』
『昨夜』
『殺されたの?』
今度は、返信がなかった。
セリナは窓の外を見た。
雨は降り続いていた。
「そう」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
彼女は立ち上がり、コートを取った。
*
店の前には、規制線が張られていた。
シャッターは半分まで下りている。入口の脇に制服警官が二人立ち、通りの向こうには鑑識の車両が停まっていた。
見慣れた看板が、雨に濡れていた。
セリナは道路の反対側から、しばらく店を眺めた。
昨日まで、ここには人がいた。
古い雑誌の匂い。紙をめくる音。主人の、どこか面倒くさそうな声。
「王の銃は、王のために作られる」
あの男はそう言った。
そして、別の言葉も残した。
「王を狩る者の銃は、王と同じ者のために作られる」
セリナは目を細めた。
誰かが背後から声をかけた。
「来るなと言ったはずだ」
振り返ると、刑事が立っていた。紺色の傘を差し、寝不足らしい顔をしている。
「来るなと言われたから、何があったのか気になったのよ」
「そういう性格だったな、お前は」
「私の性格を知っているような口ぶりね」
「知りたくもないことまで知っている」
刑事は傘を少し傾けた。
セリナは規制線の向こうに目を戻した。
「撃たれたの?」
刑事は答えなかった。
「銃で?」
「今は何も言えない」
「私にだけでも?」
「お前にだけだから言えないんだ」
セリナは、わずかに笑った。
「便利な言い訳ね」
「お互い様だ」
二人の間を、雨音が埋めた。
刑事は通りを行き交う人々を見た。立ち止まって店を眺める者。スマートフォンを向ける者。何も知らずに通り過ぎる者。
誰もが、何かを見ていた。
けれど、誰も同じものを見てはいなかった。
「店主は、お前が最後に会った客の一人だ」
「一人?」
「そうだ」
「ほかにも客がいたのね」
「その言い方は、まるで自分が特別だと思っているみたいだな」
「特別だなんて思ってないわ。ただ、あの人が私に何かを話したことを、あなたも知っているのかと思っただけ」
刑事の顔から、わずかに表情が消えた。
「何を話した?」
「黄金の銃について」
「それだけか?」
「それ以外に何を話すの?」
刑事は答えなかった。
セリナは、その沈黙を観察した。
この男は嘘をつくとき、目をそらさない。少なくとも、彼女が知る限りではそうだった。
だが、今の沈黙が嘘なのか、何も知らないということなのか、彼女にはわからなかった。
「セリナ」
刑事が言った。
「しばらく、あの銃のことは忘れろ」
彼女は彼を見た。
「どの銃?」
刑事は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「……そういうところが、お前の嫌いなところだ」
「私はあなたのこと、嫌いじゃないわ」
「それはよかった」
「便利な人だから」
刑事は笑わなかった。
「今回は、俺を便利だと思わない方がいい」
*
その夜、セリナは久しぶりに銀花を磨いた。
二挺を机の上に並べる。
柔らかな布を手に取り、銀色の表面をゆっくりと拭っていく。刻印の溝に残ったわずかな汚れを取り除き、琥珀色の木製グリップを確かめる。
「こんなに真っ黒に汚しちゃって」
いつもの言葉だった。
だが、今日は少し違って聞こえた。
店主の死を、彼女は悲しんでいるのだろうか。
それとも、黄金銃について知っている人間が一人減ったことを惜しんでいるのだろうか。
自分でも区別がつかなかった。
机の端には、黄金銃の写真があった。
セリナは銀花の一挺を持ち上げ、写真の横に置いた。
銀色と金色。
二挺の銃は、写真の中でよく似ていた。
だが、決定的に同じではなかった。
彼女は写真を裏返した。
そこには、以前から何度も見てきた英文があった。
Some things are not lost. They are waiting.
失われたのではない。
待っているのだ。
「誰を?」
セリナはつぶやいた。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
差出人の表示はなかった。
添付されていたのは、古い雑誌店の店内を写した一枚の写真だった。
カウンターの向こうに、店主が座っている。
いつ撮影されたものなのかはわからない。
店主は顔を上げ、こちらを見ていた。
写真の下には、一文だけ添えられていた。
『彼は、二挺目を見つけた』
セリナは画面を拡大した。
店主の手元に、何かが写っている。
小さな金色の反射。
それが銃なのか、ただの光なのかは判別できなかった。
彼女は写真を保存した。
それから、何事もなかったようにスマートフォンを伏せた。
机の上には、銀花が二挺並んでいる。
そのうち一挺の王冠には、先端が欠けた刻印があった。
セリナはそれを見つめた。
そして、布を置いた。
「……あなたたちは、何を知っているの?」
銃は答えなかった。
窓の外で、雨が降り続いていた。




