第9話 金保留は激アツ(後編)
四人の高校生がフロアから消えたレジの前。
「小山田さん、フロアちょっと預けていい~?」
「なんとかなりまーす。なんとかならなかった事ないですもん」
小山田 梨沙は前髪をぱつんと切りそろえた顔で目を糸みたいに細くして笑う。
深夜のフロントが入る二十二時まで、フロントは小山田ひとりである。六人席の五人連れがタブレットで食後のデザートを頼んだところで、窓側の四人卓がもうすぐ立つ。
仁科は笑い返して事務所のドアを開ける。
*
事務所。
仁科がレジのジャーナルをさかのぼると、取引が一行ずつ上へ流れていく。
”二十時五十分 三十一卓 分割 一名分 現金”
駒井が言ったとおりの時刻と払い方で、駒井の話に嘘も間違いも無い。
その頃仁科はこの机で発注の数字を打っていた。ドアの向こうでチンと呼び鈴が鳴り、誰かが「レジお願いしまーす」と言ったのを覚えていて立たなかった。いつもどおり誰かが出たからである。
モニターの録画を戻すと、三つに分かれた画面の中で人がみんな後ろ向きに歩き、隅の数字が二十一時二十分、十九分と逆に流れていく。十八分で止めて再生する。
下の画面は二番へ行く通路である。紺のジャケットの男が奥の角から出て来て、鞄を肩にかけて入口のほうへ歩く。
角の手前にトレーを胸に持った小さな制服が映っていて、その顔は男が通り過ぎるまでずっと男のほうを向いている。それから制服はくるりと向きを変えて画面から消える。
左上の画面のレジには誰もいない。レジ台の横の銀色のクリップに三十一卓の伝票が一枚挟まっている。
男がレジの前に来て一歩ぶんだけ足をゆるめてレジの奥を見る。右上の入口の画面で自動ドアが開いて閉じる。
”二十一時十八分四十秒”
合図は見えていた。トレーを持った皐月の目に帰り支度はちゃんと入っていた。
ただ、それを声にする言葉がこの店に無い。
『お客様がお席を立たれたら、客席担当者が大きな声で「ありがとうございます」と言います。お礼の言葉ですが、同時に従業員への知らせでもあります。その声がパントリーまで届いて、入口とレジの係が、いなければ店長がレジでお客様をお迎えします。お客様をレジの前で待たせない。帰り支度はお客様がくださる合図です』
二〇二四年の春、社員になってすぐの本社の研修で講師の人がそう言った。
この店の流れはそれと逆さまである。
お客様が先にレジの前に立って呼び鈴を押すと、それを誰かが見て「レジお願いしまーす」と言い、行ける人が行く。店員はいつもお客様を後から追いかけている。
見た人がいなければ「レジお願いしまーす」さえ出ず、誰も行かない。
今夜の二十一時過ぎがそれだった。帰り支度を見ていたのは研修中の皐月だけで、皐月はその合図の読み方を誰にも教わっていない。
「ありがとうございます」は一声でお礼と店の中への「お帰りだよ」を済ませる言葉で、八大用語にない「レジお願いしまーす」は、その「お帰りだよ」だけを遅れて言っている。
仁科は講師の言葉を研修のノートに書いたが、店では使わなかった。前の店長は立ったお客様に自分で気づいて自分でレジに出ていく人で、誰も声を出す必要がなかった。
主任になっても仁科はその意味を誰にも渡していない。
――知ってたのは俺だけか
仁科は携帯を出して画面に指を三回置く。
一、一、〇。
「……もしもし。レストラン・メイプル霞ヶ丘店の仁科と申します。先ほど、無銭飲食がありまして」
*
女子の更衣室。
駒井は黙って着替えている。
制服のシャツのボタンを外す指が二つ目で引っかかって三つ目でまた引っかかるのを、皐月はロッカーの扉の小さな鏡越しに見ている。
「……駒井さん」
ごめんなさい、が喉の奥でひっかかる。
駒井は鞄を肩にかけて暫くロッカーの前に立っている。
「……土曜、ネチ坂いるよね?」
「ネチ坂……って、店長?」
駒井は答えない。ロッカーの扉に映った駒井の顔が一瞬だけ叱られる前の子どもの顔になって唇の内側を噛み、次の瞬間にはいつもの顔に戻って「お疲れ」と言って出ていく。
皐月はひとりロッカーの前に残る。
あの男が目の前をレジのほうへ歩いていくのを、皐月は見ていて何も言わなかった。それから三十一卓をきれいに拭いた、醤油差しの底まで。グラスも紙ナプキンも全部下げた。
――私、見てて黙って、それから消したんだ
今日一番速かった片付けが皐月の手のひらにまだ残っていた。
*
事務所。
机の上で仁科の携帯が震える。
”店長”
水曜の夜、高坂は公休でも二十二時の少し前に必ず一度かけてくる。
仁科が出ると電話の向こうがうるさい。
じゃらじゃらという金属の音、どこかの台の甲高い電子音、「チャンス!」と叫ぶ機械の声。そのすき間から高坂の声がする。
「高校生は?」
「上げました~。四人とも四十五分で~す」
いつもならそれで切れる。
「あ、店長~。それとちょっと食い逃げが~」
電話の向こうで一秒何も聞こえなくなる。
「待て」
じゃらじゃらが遠くなる。自動ドアの開く音のあと、音がすうっと引いて夜の虫の声だけになる。
「金額」
「千四百八十五円で~す」
あとは時刻と卓番と警察と、録画を上書きされる前に残す事を、高坂は一語ずつ間なく押さえていく。レジに入ったのが駒井だとわかると電話の向こうで長い溜息が一つ。
「レジは入口の係だけ。三回言った。いや、四回だ。朝礼で二回と連絡ノートと主任に直接」
「四回で~す」
「で、未収一覧は?」
「駒井さんが上がる前に出して小山田さんに渡しかけて~」
「渡しかけて、じゃない。一覧は在卓と合わせろって言ったよな。紙を渡すだけなら紙はいらん。合わせてたら、三十一卓が空いてるのは片付けた時にわかってる」
ネチネチと高坂の声が細く長く続く。
「店長来ます~?」
「……処理は出勤してからだ。そういう決まりになってる」
本当の事を言う声の奥に、行きたくないという声がうっすら透けていて、仁科にはそれも聞こえる。
「三十一卓の会計は開けとけ。取り消しは明日、俺のキーでやる。エリアマネジャーには俺から報告する」
それで終わりだと仁科は思う。
「主任」
「はい~」
「どうしたら防げた?」
虫の声だけが暫く鳴っている。
高坂は答えを知っていて試す人では無く、自分で考えるのが面倒な時に人に考えさせる人だと仁科は知っている。
だから今のは本当に聞いている。
仁科の口が開く。
「……帰り――」
モニターの中で止めたままの画が灰色に光っていて、トレーを持った小さな制服が男の背中を見ている。
「――店長がいれば、ですかね~」
電話の向こうで高坂が黙る。
半分は本当で、前の店長の頃はこんな事は起きなかった。
半分は逃げである。
「……そうか」
「明日、日報に書いとけ」
「了解で~す」
通話が切れて、仁科は携帯を机に伏せる。
*
パチンコ屋の駐車場。
高坂 克は自動ドアの外の灰皿の横に立って火の点いていない煙草をくわえている。
ガラスの向こうに休憩の札を挟んできた自分の台が見えて、その画面で保留の玉が一つ金色に光っている。めったに出ない、当たりの近い色である。
――金色やぞ。なんで今やねん。未収で金保留……言うてる場合か!
手の中の携帯が急に重い。
面倒くさい。店長になってから三週間、公休の日も昼には店に顔を出していて、今日は初めて一度も行かずに済んだ日のはずだった。
高坂はガラスの向こうの金色から目を外す。
電話帳を開いてエリアマネジャーの名前を押すと、呼び出し音が二回鳴る。
「お疲れさまです。霞ヶ丘の高坂です」
*
休憩室の前。
皐月が通用口の端末の前に立つと、ドアが開いて人が入って来る。
背が高いのに猫背で白髪まじりの短い髪に黒縁の眼鏡の内藤 修は、深夜のキッチンの責任者である。皐月はこの人とは何度かすれ違ってあいさつを交わしただけである。
「おはようございます」
内藤は皐月に向かって深くゆっくり頭を下げる。十七歳の研修中に向けるにしては角度が深すぎる。
「……お疲れさまです」
皐月の声は自分でも驚くくらい小さい。
内藤は顔を上げて皐月の顔を一度だけ見るが、そのまま皐月の後ろに半歩下がって待つ。
皐月は端末にカードをかざす。
ピッ
”退勤 二十一時五十六分”
「真田さん」
名前を呼ばれたのは初めてで、皐月は振り返る。
「……そういう夜も、ございます」
それだけ言って内藤は猫背のまま更衣室のほうへ歩いていく。
皐月はポケットの上から、夕方に仁科の言葉を書きとめた四つ折りのメモを一度だけ押さえる。”顔より先に見るとこ→?”。
――顔は覚えてたのに
通用口のドアを押して皐月は外に出る。
*
事務所。
ルーカスは紙袋を持って休憩室のほうへ行き、暫くして戻って来る。
「パンおいた。きょうは、ニシナふたつ」
「なんで俺だけ二つ~?」
「ひとつは、ニシナの、ぶん。もうひとつも、ニシナの、ぶん」
ルーカスは太い眉を寄せてちょっと考えて、それから口の中で言う。
「……フォルサ」
ルーカスは大きな声で笑って通用口のほうへ歩いていき、笑い声が廊下の端まで響いてピッという打刻の音で途切れる。
*
二十二時を少し過ぎて警察は表の入口から入って来た。
サイレンは鳴らず、赤い灯りも駐車場の外で消してある。制服の警察官が二人自動ドアを抜けて来ると、入口のチャイムがお客様と同じ音で鳴る。
「いらっしゃ――」
小山田の声が途中で止まって、それから笑顔のまま「こちらへどうぞ」に変わる。
警察官は事務所に通されて二十一時過ぎの灰色の画を手元の機械に写していく。
その間、仁科はダスターとトレーを持って客席に出ている。
二十二時を過ぎた店は急に広い。高校生の夕方の声が全部抜けて冷蔵ケースの低い唸りと製氷機の氷の落ちる音だけが残っている。
*
二十三時ごろ、事務所。
仁科は日報を開いて”本日の出来事”の欄に時刻と卓番と金額、警察に届けた事を並べて書き、”対策”の欄にペンを置く。
”① 未収の一覧は、出したら在卓と合わせてから引き継ぐ~”
”② 別会計の卓は、伝票に印をつけて引き継ぎで口頭で伝達~”
ここまではすらすら書けるが、ペンが③の数字を書いて止まる。
手順を二つ足しても今夜は防げない。一覧を合わせてもわかるのは皐月が片付けたあとである。印をつけても男はもう自動ドアの外にいる。
”③ 帰り支度には、一声~。見た人が客席から「ありがとうございます」で、聞いた人がレジへ~”
仁科はその下に一行足す。いつもの癖で語尾に波線を付けそうになったペン先が紙の上で止まる。
”知ってました。”
明細と伝票と日報を揃えて高坂の机の真ん中に置く。
休憩室のテーブルにチーズパンが二つ。紙ナプキンに包まれて残っていて、仁科は二つとも上着のポケットに入れた。
*
翌二十九日、木曜日の十時半、事務所。
高坂はゆうべあのあと台に戻った。金色の保留は外れてそこから閉店まで粘って財布の中身が一枚になった。一枚は千円札である。
机の上に書類が山になっている。
事故の報告書、現金の過不足の報告書、日報の詳しい説明、クルーへの知らせ。それから本社からの店長あて通達が今朝もう一通届いている。
高坂は山を見て椅子に座らずに天井を見る。
休みたい。出来れば今すぐ出来れば明日も、欲を言えばその次も。
ゆうべ帰ってから気づいたのだが、休みの日に電話をかけてくる人も電話を待っていてくれる人も自分にはいない。恋人がいないというのはつまりそういう事である。
どうしたらこの山を誰かに押し付けられるのか。
ゆうべの当事者で日報も書いた主任に書かせればいい。シフト表を見る。木曜、仁科、公休。
ランチのパートは字がきれいだがゆうべ店にいなかった。内藤は店にいたがもう家で寝ている時刻で、起こして頼んだらあとで何倍も面倒になる。
高坂は暫く本気で考えたが、ほかに書ける人は店のどこにもいなかった。
「はぁ~~~」長い溜息をついて椅子に座る。
日報を開くと仁科の字が丸っこく跳ねている。
対策の①と②を事故の報告書にそのまま写して、③もそのまま写す。考えなくていいので楽である。
”知ってました。”の一行でパソコンを打つ手が止まった。暫く目を閉じた後、その一行は写さずに指がまた動く。
原因の欄には一行だけ書く。
”店長不在時のレジの運用と、未収の引き継ぎの確認が、徹底されていなかったため”
事務の文章として淡々と書いて誰の名前も書かない。
*
報告書を書き終えると昼をとうに回っている。
最後に連絡ノートが残る。
ホワイトボードの下に吊るしてある、クルーへの知らせを書くノートである。
高坂はペンを持って暫く白いページを見る。
書く事は一ページでは足りない。帰り支度の意味、声の意味、レジに出る意味、ひとりの目でやっていた事を皆の声で分けるという事。
高坂は一行だけ書く。
”お客様が帰り支度をされたら、見た人が客席から「ありがとうございます」。「レジお願いします」は今日から使わない。理由:店長が、報告書を書きたくないので。以上 高坂”
嘘は一つも書いていない。
*
十七時過ぎ、事務所。
高坂は机の端によけておいた三十一卓の明細を引き寄せる。
ゆうべからずっとそこにあって一番面倒なので一番最後に回した。
伝票を明細から外してレジの前に立つ。店長のキーを差しこんで回し、三十一卓の未会計を呼び出して取り消すと千四百八十五円が画面から消える。
事務所に戻って明細を机に置くと、余白に仁科の字が並んでいる。”二十時五十分 セパレート(分けた会計)~”、”二十一時十八分 退店(録画)~”、”二十一時三十八分 未収一覧で発覚~”、”二十一時四十九分 通報~”。
高坂は赤いペンを取ってその横に大きく書く。
”十月二十九日 十七時八分 三十一卓 未収 千四百八十五円 取消 店長 高坂”
明細の余白は赤い字でほとんど埋まって、仁科の丸っこい字はその横に小さく跳ねたまま残っていた。
本日の売上 計画 341,000円/実績 328,675円(計画比96.4%)
本日の客数 計画 232人/実績 222人(計画比95.7%)
本日の客単価 計画 1,470円/実績 1,481円
今月の累計 売上 前年比98.0%/客数 前年比94.9%




