第5話 猫の手に負けました(前編)
「……角では、一旦停止」
事務所の丸椅子の上で、皐月の上半身がぴたりと止まる。
止まったつもりの体が、椅子ごと、ぎしりと前へ傾く。
「一旦停止!」
もう一度。今度は椅子の脚が床を擦る。
十六時五十分。初日に遅刻した新人が十分前に来て、座ったまま角を曲がる練習をしている。褒める者はいない。事務所の奥では高坂が黙って伝票の束をめくっている。
「……角やお客様とすれ違う時は、必ず一旦停止しましょう。お料理をこぼさない、お客様にぶつからない。それが安全な配膳の第一歩です」
タブレットの中で、無機質な女性の声が淡々と言う。画面の中の模範の店員は、角で止まってにこりと笑って、また歩き出す。
皐月は画面をにらみながら、止まってにこりとする。頬が引きつっている。
「お~、皐月ちゃん早いね~」
ドアから仁科が顔だけ出す。
「おはようございます主任。今日は遅刻しませんから」
「えらいえらい。あ、そうだ。フロアに新人いるよ~」
「新人?」
「昨日から。皐月ちゃんより、止まるのうまいの」
ぴくっ
負けず嫌いの皐月の片眉がつり上がり仁科へ振り返る。
仁科は肩を震わせながら、顔を引っこめる。
「新人の人がはいったんですか?」
「皐月、画面」
高坂は伝票から目を上げずに言う。
「昨日から各卓に注文のタブレットが入った。呼び出しのボタンは外した。客席の事は主任に聞け」
「……その新人の人、どんな人ですか」
「見ればわかる」
高坂の口の端がほんの少しだけ動いた気がする。皐月は見逃している。
――上等じゃない。後輩に止まり方で負けてたまるもんですか!
*
十七時四十五分。
研修動画から解放された皐月が、仁科のあとについてパントリーに入る。
客席を見渡すとどの卓にも、黒い板が一枚ずつ立っている。注文用のタブレットである。卓の端にあった呼び出しのボタンは、ねじ穴を二つ残して消えていた。
ピ、と軽い音がする。
中央通路の向こうからそれは来る。
背丈は皐月の肩くらい。白くて背の高い胴にトレイが四段。一番上の画面に、三角の耳と弓なりの目。ネコの顔である。
そして胴には、パープルの縦縞。
皐月は、自分のシャツを見下ろす。
パープルの縦縞。
「……うちの柄、着てる」
「本社からの配属。配膳ロボット。昨日入った新人~」
「新人って、これですか!」
「止まるの、うまいよ~」
ネコはパントリーの出入り口の角ですっと止まる。つんのめりもせず揺れもしない。止まってするりとパントリーに入って来る。
画面の目は笑っている。
人手が足りない。だから卓にタブレットを置いて注文はお客様に打ってもらう。皿は機械に運ばせる。ここ数年どこのチェーンでも同じ光景が広がっている。本社の施策の紙には、空いた人の手で何をするかまでは書いていない。
「じゃ、今日の実地。まず一旦停止ね~」
仁科が水のグラスを三つ載せたトレイを皐月に持たせる。
「パントリーの出口から二十三卓の角と窓際まで。角ごとに止まる。はい、どうぞ~」
「任せてください。動画で百回見ました」
皐月は歩き出す。パントリーの出入り口の角。止まる。
止まったつもりの体が前へ半歩流れる。グラスの水がちゃぷんと縁を舐める。
「おっと」
「はい、こぼれかけ~」
二十三卓の角。止まる。今度は体が止まって、腕だけが前へ行く。グラスが三つそろって、ちゃぷん。
その横をネコが追い越していく。窓際へのパスタとドリアを胴に抱えて。載せたのはデシャップ台の秋山 隆弘。二十歳、大学二回生。夕方から夜のフロントの段取りの人である。
二十三卓の角でネコはぴたりと止まる。パスタのソースの面が鏡の様に動かない。
止まっている間も目は笑っている。
「一旦停止、ロボットに負けてるよ~」
「負けてません!」
「顔も負けてる。向こうはずっと笑ってる」
皐月は自分の顔を想像する。止まるのに必死で、奥歯を噛んで眉間に縦じわ。
ネコは窓際の卓でトレイを光らせお客様が皿を取ると、くるりと向きを変えて戻って来る。
皐月はグラスのトレイを持ち直す。
――次はあいつより先に角に入る
研修の目標がいつの間にか入れ替わっている。
ネコが中央通路を戻って来る。皐月も歩き出す。早足で。止まる練習のはずが止まる気が一つもない足取りである。
パントリーの出入り口の角で、二つの縦縞が鼻先を突き合わせる。
ネコが止まる。
「恐れ入ります。お通しください」
丁寧な女性の声。録音である。
「先に来たのは、私です」
「恐れ入ります。お通しください」
「私の方が先でした。見てましたよね主任」
キッチンの奥で、誰かが「ぶふっ」と吹き出す。
「恐れ入ります。お通しください」
「そっちが下がればいいでしょ」
「恐れ入ります。お通しください」
ネコは一ミリも下がらない。下がるという機能を持っていない。
「皐月、そこ塞ぐな。十二卓のサラダが上がる」
デシャップ台から、秋山の声が飛ぶ。顔はこちらを見ずに手はもう次の皿の向きをそろえている。
「はい、そこまで~」
仁科が、皐月の肩をつまんで一歩横へどける。ネコは空いた道をするりと抜けパントリーの中で止まって、次の料理を待つ。
笑った目のまま。
「お客様のお料理が冷めるのと皐月ちゃんのプライド、どっちが大事?」
「……お料理です」
「えらい」
仁科はネコの頭の画面をぽんぽんと叩く。
「しかし、あれだな~。同じ柄を着て皐月ちゃんより止まるのがうまい新入りか~」
「……嫌な予感がします」
「よし、皐月ちゃん二号!」
「やめてください」
「長いな。二号。ニゴー」
「やめてください!」
秋山がネコに十二卓のサラダを載せ卓の番号を押している。仁科がその背中を軽く押す。
「行ってこい、ニゴー」
ピ、と鳴いて、ニゴーは出ていく。
遠ざかる白い胴の上で、画面の目がこちらを振り向きもせず、笑っている。
「笑うな」
「皐月ちゃん、それずっと笑ってるから」
秋山は、胸ポケットから四つ折りの紙を抜いて片手で開く。今日のシフト表である。
「今夜のフロントは、俺と高校生一人と主任。三人」
「……私は」
「皐月は研修。数に入ってない」
秋山の目が通路の先のニゴーに移る。
「あれは四人目だな」
「私は!?」
「ゼロ人目」
四つ折りに戻したシフト表が胸ポケットに収まる。
皐月はトレイの取っ手を握りしめる。
――見てなさいよ猫。止まるのも、グリーティングも、笑顔もマニュアル全部、あんたより正確にやってやる
真田皐月、十七歳。研修中盤にして張り合う相手が機械になった瞬間であった。
*
十七時五十分。
奥の二人席に、男が一人座っている。
七十代の後半だろうか。白い髪を短く刈りこみ、背筋が定規を当てた様に立っている。紺のジャンパーの胸ポケットにボールペンが一本。
男はニゴーが通るたびに右手を上げる。
ニゴーは素通りする。
上げた手が宙に取り残される。
三度目。男は立ち上がり通路に出る。ニゴーの前に腕を組んで立ちはだかる。
「注文だ」
「恐れ入ります。お通しください」
「通してほしけりゃ、注文を聞け」
男とニゴーのやりとりを周囲のお客様が見つめる。携帯を取り出して録画を始める人までいた。
「お、お客様!」
皐月が無意識に駆け出す。二十三卓の角を止まらずに抜ける。
抜けてから気づいて二歩戻る。
「申し訳ございません、お客様!」
「あんたが聞くのか」
「はい、私が伺います!」
男はニゴーを一瞥して席に戻る。ニゴーは空いた道を抜けていく。
仁科が追いついて皐月の耳元で囁く。
「あ~、金曜の人だ。いつも呼び鈴一回だけ押してじっと待ってる人」
その呼び鈴は昨日外されている。卓の端にはねじ穴が二つ残っているだけである。
男の前のタブレットには料理の写真が並んでいる。男の太い人差し指が写真の上を押す。
何も起きない。
「字が小さい。押してもうんともすんとも言わん」
乾いた指先では画面が反応しない事がある。本社の施策の紙にはそれも書いていない。
仁科が皐月に代わり、男の注文をハンディでうかがう。
*
「あの猫はなんだ」
男が顎で通路をしゃくる。ニゴーが窓際から戻って来るところである。
「あれは、その、配膳の……」
「ニゴーです」
皐月が口ごもる間に、仁科が一歩前に出て男の目の高さまで腰を落としている。
「皐月ちゃん二号。この子と同じ柄を着てて、この子より止まるのがうまいんで」
「主任!」
男は皐月のシャツの縦縞と、ニゴーの胴の縦縞を二度見比べる。
「……ははっ」
短く乾いた声。男が声を出して笑っている。
「……笑い声、初めて聞いた」
仁科がぽつりとつぶやく。皐月の耳には入っていない。顔が真っ赤で耳まで塞がっている。
「たしかに、止まるのは猫の方がうまい」
「お客様まで!」
男は胸ポケットのボールペンに手をやる。書く為では無い。癖で触っただけらしい。
「わしは国道の先の教習所で四十年、”止まれ”を教えとった」
皐月はあわてて腰を落とす。男の目の高さ。手はおへその前で組む。動画で百回見たお客様のお話を伺う姿勢である。
「教習所……」
「角田だ」
名乗り方まで号令である。
「あの猫は止まっとる。あんたは止まったふりだ」
「ふり……」
「止まったら、腹の中で『一』と数えろ。それで初めて止まった事になる」
皐月の目の色が変わる。
――たった一つ数えるだけ。あの猫が数えてるかどうかなんて知らないけど、私は数えられる
――これ、武器だ
本日の売上 計画 435,000円/実績 ――
本日の客数 計画 290人/実績 ――
本日の客単価 計画 1,500円/実績 ――
今月の累計 売上 前年比 ――/客数 前年比 ――




