第2話 髪対応(前編)
朝からはっきりとしない曇空。メイプルの窓から見える街路樹の銀杏が、風に煽られて青い葉をざわつかせていた。お客様も疎らな店内でデイリークリーンの内窓のふきあげをしていたパートの横田 祥子は、先程日替わりランチを提供した若い夫婦に呼ばれていた。
「すみません……あの」
「すみません? いや、謝るとかいいから、これどうすんの?」
午前十時
メイプルで日替わりランチが始まる時間。その直後に事件が起きた。
金髪の若い夫婦が注文した日替わりランチに、三センチ程の髪の毛が混入。
レストランで一番恐れられ、そして頻繁に起きる”異物混入”のクレームが発生。ライスは皿に半分ぐらいに減っていて、そのライスの”上”にその髪が鎮座していた。
祥子は頭が真っ白になりながらも必死で謝罪を繰り返す。
彼女は三十二歳の主婦で、入社してまだ三ヶ月程の準新人クラス。接客オペレーションがやっと一通りマニュアル通りにこなせる様になったレベルである。いつもは先輩パートの指示を受けながら接客を行うのだが、接客も安定してきたので、今日は初めて九時から十一時まで一人で客席を任される日であった。
――どうしよう? 私がこのライスを運んだ時は、絶対にこんな髪なんて無かったのに……
「す、すみません!」
「いや、だから~、すみませんとかいいから、これどうすんのかって聞いてんだろ?」
男がイライラした様に祥子を問い詰める。若い妻は、我関せずといった具合に淡々と食事を続ける。どうしていいかわからない様に立ち竦む祥子は「すみません」と繰り返すばかり。
「あんたじゃ話にならんから店長呼んで」
おろおろするばかりでロクな対応が出来ない祥子に、しびれを切らす若い男。
――そうだ! 店長に対応してもらおう。なんでこんな事に気が付かなかったんだろう。
高坂は十一時から出勤予定で、いつもなら大体三十分前には店に来る。祥子がチラリと店内の時計を盗み見ると、長い針は”三”を指していた。後十五分程で高坂が到着するはずである。
『まずはお客様の言う内容を良く聞いて、絶対に反論しない事。”でもでもだって”とか論外』
間もなく到着するであろう高坂の顔が脳裏に過ぎった時、祥子は昨日の高坂の言葉を思い出す。明日から二時間とはいえ一人で客席を任せられる祥子は嬉しさ半分、不安が半分で先輩パート達のアドバイスやエールを受けながらも緊張が解かれる事は無かった。
『お客様の言い分が終わったら、まず第一声は「申し訳ございません」。「すみません」じゃないからね。すみませんは謝罪の言葉ではないので、クレーム対応中は使わない事。そしてお客様が何に怒っているのかを判断して、それについての対応を提案する事。これが一番大事。謝罪を繰り返す事がクレームの対応じゃないよ』
少しでも緊張をほぐす為に、昨日遅くまで高坂に教えられたクレーム対応のメモを読み返していた祥子。俯いていた祥子は、知らず知らずの内に手のひらを握り締める。
――何やってるの私。店長に言われた事が全然出来て無い。
「た、大変申し訳ございません!」今までの様に首を曲げる様なお辞儀では無く、腰から九十度に深々と頭を下げて、改めて謝罪をする祥子。黙々と食事をしていた妻が手を止め祥子を見る。
――お客様は食事の中に異物(髪の毛)が混入していた事に怒っている。だったらどうする? 髪の毛を取ればいいの? いやいやいやいや、考えるのよ祥子。そう、お客様の立場になるの。私だったらそんなご飯は食べたくない。だったらどうする? 新しい物と取り替える?
「こ、この様な物を提供して、すみ……申し訳ございません。あ、新しい物とお取り替えさせて頂きたいのですが、よ、よろしいでしょうか?」
頭を下げたまま、先程までとは別人の様に”すみません”以外の言葉を繰り出す祥子の迫力に、少し圧倒される男。
「……いや、取り替えるつっても気分が悪いしな~。大体この店、衛生管理とかどうなってんの? 客に出す料理に髪の毛が入っているとか信じられないよな~」
――何? 髪の毛が入ってた事に怒ってるんじゃないの? なんでこの人こんなにネチネチ言ってんの? 何に怒ってるの? 店長、もう無理……
時刻は十時二十五分。高坂未だ現れず。
*
ピンポ~ん♪
高坂が出勤前に日課の様に寄るコンビニ、ファミリーメイト。
「え?」
「すみません……」
――すみません、じゃなくて、”申し訳ございません”だろうがゴルァァーー! 常連のタバコのストック切らすとかナメてんのかこの店。店長呼んで〆たろか!
「……はは、そうですか」
「はい、すみません」
店員がにこやかに答える。
――おいおい、なんで笑顔なんだよ! おんどれが今すぐ隣のコンビニからワンカートン買って来んかい!
「……じゃ、アイスコーヒー貰おうか」
「すみません、ただいま清掃中でして……」
――うん、キル確定。ここの店長はキル確定な。もう許さないから
ピンポ~ん♪
「ありがとうございました!」
何も買わずにトボトボと店を出る高坂に、トドメの一言が追い討ちをかけた。




