第15話 高坂の頼み事には裏がある
「おはようございます」
二十二時二分、パントリー。事務所から出て来た深夜の責任者の内藤が、食器を仕分けている秋山に深く頭を下げてキッチンへ入っていく。
秋山 隆弘は十六時から店にいるが、内藤は誰にでも、いつでもそう言う。
秋山はトレーの皿とグラスとカトラリーをバスボックスに分けながら、頭の中で計算する。客席のお客様は十八人程で、フロントは自分と広瀬の二人。主任の仁科は二十二時から休憩に入っている。今の十八人なら二人で足りるし、あと二組、三組入って来ても持つ。
更衣室のほうから広瀬が来る。秋山と同じ風林堂大学の二回生で、火曜は二十二時から深夜のフロントに入る。
「広瀬、入口とレジと客席B。案内は入口に近いほうから。Aの十六卓、そろそろ会計」
広瀬は何を言われても「はい」と答えるので、伝わったかどうかはあとで十六卓を見ればわかる。
そこへ事務所のほうから店長の高坂が中央通路を抜けてパントリーへ来る。
「秋山。事務所」
高坂はそれだけ言って来た道を戻っていく。
秋山は手を拭きながら、フロアを広瀬一人にするあいだの事を考える。しばらくは一人でも持つが、入口に何組も続けて入って来たら持たない。
「広瀬、Aも見て。十七卓、料理まだ。キンコン鳴ったら持ってって」
広瀬は「はい」と答えて、もう入口へ歩いている。
*
事務所のドアを閉めると、客席の音がほとんど消える。
ソファでは主任の仁科が制服のまま足を低い机の端に乗せ、スマホを顔の上に持ち上げている。四十五分の休憩を仁科はいつもここで溶けて過ごす。
ホワイトボードには十七時の配置が残っていて、全部高坂の字である。研修の子を付ける行の”秋山の横”もそのままで、十九時過ぎに秋山が「なんで俺なんですか?」と聞いて、「消すとボードが汚れる」とはぐらかされた行である。秋山はそこから目をそらす。
高坂がデスクの上の紙を一枚取って秋山のほうへ出す。
「頼みたい事がある。読め」
本社の衛生監査の知らせの裏に、黒のペンで高坂の字が並んでいる。
”シフトリーダー 秋山”
”一 秋山の出る夜(火・木・土・日)は、十七時から二十二時までの配置を秋山がボードに書く。区画ごとに名前を書く。お客様に呼ばれたら、その区画の者が行く”
”二 店長が決めた時は、研修の子の横に立つ。その前に、研修で教える事を店長が秋山に一から教え直す”
”三 休む人の話が秋山に来ても、秋山は代わりを探さない。本人に返して店に電話させる”
”四 時給、百円程上がる予定”
シフトリーダーはよそのチェーンにはある役で、その時間のアルバイトの先頭に立って配置と段取りを受け持つ。前の店長の頃の霞ヶ丘には無かった。
高坂はその役を、主任がソファにいる前で学生に頼んでいる。主任に頼まないわけなら秋山にも一つ思いつく。主任は都合が悪くなると語尾を伸ばしてごまかす人である。
秋山の目は四つを順に読む前に、紙の上に無い物を探している。
――誰かを注意しろ、は無い
夕方に入る学生たちをまとめているのは四回生の小山田で、小山田と仲のいい誰かを秋山が注意すれば小山田の顔がつぶれる。権限も無いのに人を注意する役は、秋山の知る限り時給の外の仕事で一番損をする。
無いのを確かめてから、秋山は頭から読み直して三で止まる。
三日前の十月三十一日の昼、十三時過ぎに小山田から電話があった。曽根が熱で休む、夕方の学生で誰か入れないか。曽根は昼前に、小山田にチャットアプリで連絡していた。秋山は出勤の前に夕方の学生の何人かに電話をかけたが誰も入れず、十四時過ぎに店へ電話した。
本社の単発の募集はその日だけ働ける人を本社がスマホのアプリで集める仕組みで、店の誰かが休むと出す。締めは休む人の勤務が始まる三時間前で、十七時からの曽根なら十四時である。
秋山は計算し直す。代わりを探すのは休む本人で、三人に当たってから店へ電話する決まりに変わった。多分店長は本気だろう。あの昼、秋山は本人でもないのに、時給の出ない電話を一時間で七本かけた。店へかけた十四時過ぎには、本社の募集はもう締まっていた。
その夜、店は人が足りずに崩れて、奥の三十六卓では研修中の甘利が――
秋山はそこで計算を止める。足すのは時間と金だけでいい。
高坂はデスクの上の日報に目を落としている。あの昼の一時間を知っているのか知らないのか、横顔からはわからない。
「なんで俺なんですか?」
秋山は紙から目を上げて聞く。今夜二度目である。
「お前は一回言えば直す。そういう奴に頼むのが、一番手間が無い」
――褒めてるのか、それ
高坂の顔はいつもの仏頂面で、どちらとも読めない。紙の二の「教え直す」が目の端で少し引っかかる。
秋山は四を指で叩く。
「これ、いつからですか?」
「役は木曜から。時給は十二月の分から。本社の承認が要る」
「通らなかったら?」
「その時言う」
秋山の頭の中でそろばんがひとりでに回り出す。木曜から月末まで、秋山のシフトは十五回あって、その十五回は百円無しのシフトリーダーである。月に百十時間程入っていて、百円なら一万一千円あまり。仕送りは無く奨学金とバイトで暮らす身には、ひと月の電気とガスと水道がまとめて払える額である。
その横にもう一つの計算が並ぶ。ボードを書き、研修の子の横に立ち、休む人の話が来たら本人に返す。特に最後は周りから反感を買いそうで、上がる時給は百円。それも十二月からである。
割に合わない。
秋山はいつもの言葉を口にする。
「時給分は働きます」
好きかとか、やる気があるかとか聞かれる前に言っておく言葉である。言っておけば冷めた奴だと思われて、冷めた奴にそれより多くを頼む人はいない。
「時給分でいい」
高坂は日報から目を上げずに言う。
秋山は次の言葉を待つが、高坂はもうペンを持って日報の続きを書いている。
ソファのほうで仁科のスマホの画面が暗くなっている。顔の上に持ち上げたまま、仁科の親指はさっきから動いていない。
秋山は紙に目を戻す。
時給分でいいなら、あの昼の一時間はやらなくていい仕事だった事になる。
なるのだが、秋山の口は別の事を言っている。
「一の区画、Aは窓側と六人席で二つに割っていいですか? 土日の十七時は四十一卓と四十二卓に団体が来るんで、そこだけ一人置きたいんです。入口の人がAの入口寄りを兼ねる時は――」
言いながら手が胸ポケットに行っていて、四つ折りのシフト表がデスクの上で開く。夕方の欄の名前に矢印が引いてあり、丸が付いて余白に小さな数字が並んでいる。配置が十七時の顔ぶれに合わない夜に秋山が頭の中で組み直して、休憩の時に書き足してきた跡である。
時給分の男の胸ポケットから出て来るにしては、書きこみが多い。
高坂がペンを止める。目がシフト表の余白の数字のところで留まっている。
「書くのはお前だ。割りたければ割れ。確認は後でする」
秋山はシフト表を少しだけ速く畳んで胸ポケットに戻す。
「これ、みんなに知らせるんですか?」
高坂は答えずに立ち上がって、ホワイトボードの下から連絡ノートを取る。出勤した人がまず読んで、下に名前を書いてから持ち場に入るノートである。今日の日付の下に高坂が書くのを秋山は横から読む。
”十一月三日”
”五日から、夕方のシフトリーダーを秋山に頼む。十七時からの配置は秋山がボードに書く”
高坂のペンは止まらずに次の行へ行く。
秋山の目はその一行のところに残る。前のページには夕方の学生の署名が並んでいて、一番大きくて丸い字が小山田である。あすの十七時前に小山田はこの一行を読んで、その下に名前を書く。
秋山は胸ポケットの上からシフト表に手を当てる。夕方の欄で秋山の矢印が一番多く引いてあるのは、小山田の名前である。
”十六日のシフトから、欠勤する時の決まりを守る事。当日休む時は本人が代わりを三人以上に頼んで、それから店に電話。チャットアプリで済ませない。前もってシフトを替わる時はシフト表を持って店長に伝える”
高坂はそこでペンを止めて、秋山のほうを向く。
「シフトは、二週間先まで、穴を空けずに貼る」
言ってから、同じ言葉をノートに書き足して、”以上 高坂”で結ぶ。
シフトは半月ごとで、休憩室の前の壁に紙で貼る。今は一週間程前にしか貼っていない。二週間先までなら、次の十二月前半のシフト表は十一月十五日に貼る事になる。
秋山はそれも計算する。十二月の頭は高校の期末のテストで、テストの週は高校生がまとめて休む。夕方の店で働いているのはほとんど高校生と大学生なので、その週のシフト表は穴だらけになる。しかも休んだ高校生はテスト勉強だと言ってお客様としてメイプルにやって来て、ドリンクバーで粘る。それを空けずに貼るなら、埋めるのはシフト表に印を押す店長である。
前の店長の頃もシフト表に空欄は無かった。誰も入らない枠には前の店長が自分の名前を書いていた。その店長はもう霞ヶ丘にいない。
秋山は何も言わない。高坂も言わない。ソファの仁科も暗い画面を見たまま言わない。
「上がる。あとはよろしく」
「お疲れさまで~す」
仁科のスマホの画面がまた明るくなっている。
高坂はドアを開けて出ていく。二十二時半である。
秋山の手の中に紙が一枚残った。
*
二十二時三十一分、客席Aルーム。
レジの上の時計を見て、秋山は自分が事務所に二十五分もいた事に気づく。
フロアに戻ると十六卓は空いて、もうセットまで済んでいる。十七卓には料理が出て、入口に近い十二卓には新しいお客様が座っている。
秋山はダスターとトレーを持って窓側を回り、十五卓のお客様が帰ったあとのグラスを下げてテーブルを拭く。
拭きながら、頭の中では五日の木曜の十七時のボードが組み上がっていく。木曜は甘利が入る。客席Aを窓側と六人席で割って、入口寄りは入口の人に兼ねてもらって、お客様に呼ばれたらその区画の者が行く。甘利の横は――
甘利の横に誰を書くかは店長が決める。秋山は頭の中のボードのその一行だけを空けておく。
日曜の夜は小山田も入る。ボードには名字だけを書く。小山田さんもボードの上では小山田である。
ふと見ると拭き終えたテーブルの上でダスターを持った手がまだ動いていて、窓側と六人席のあいだに木曜の区画の線を引いている。
――時給の出ない計算だ
秋山はダスターを畳んで次の卓へ行く。
キンコン♪
料理が出来上がった時にキッチンが鳴らす合図で、どちらの客席の皿かはパントリーの出入り口の上のAとBのランプでわかる。秋山は早足でパントリーへ戻る。キッチンとの境の台にミートドリアの皿が置いてある。
「十二卓」
キッチンで皿をそろえて台に出す係の依田が、手元から顔も上げずに卓番だけを言う。店長が台の前に立っている夜なら、取りに来た者がまず「はい、Aです」と言い、下げて来た物を仕分けるその背中に、依田が「十二卓、ミートドリア、上り伝票です」と品の名前とその卓の最後の一皿である事まで言う。「はい、了解」が返って、声が一往復してから皿が出ていく。
先に来ていた広瀬が何も言わずに皿を取り、ランプも消さずに出ていく。高坂の居ない夜はいつもこうで、今までもこうであった。
*
二十二時五十三分、更衣室。
制服のシャツを脱ぐ前に、秋山は胸ポケットから紙を二枚出す。書きこみだらけのシフト表と、四つ折りにした本社の知らせの裏。二枚を重ねて上着の内ポケットに入れる。
一回言えば直す、が褒め言葉なのかどうかは紙のどこにも書いていない。
本日の売上 計画 446,000円/実績 416,444円(計画比93.4%)
本日の客数 計画 300人/実績 278人(計画比92.7%)
本日の客単価 計画 1,487円/実績 1,498円
今月の累計 売上 前年比109.9%/客数 前年比106.9%




