第14話 戻るまでが接客です
ジュッ
缶コーヒーの飲み口で吸いさしが消える。
十六時五十六分、ゴミ庫の陰の喫煙所。角一つ向こうで通用口のドアが閉まる音がして、それきり駐輪場から足音は聞こえてこない。
高坂は十七時の前に一本だけと思って出て来た。きのう店の電話で「辞めます」と言ってきた研修中の甘利 七海の事を、一本吸えば何か考えつくと思っていたが、考えつく前に角一つ向こうで甘利が「続けます」と言ってしまった。
――勝手に片付けよって
腹の中でだけ出る関西弁で毒づいて、ほっとしたのが九割、面白くないのが一割である。
きのうの電話で、制服を返しに来る十七時には事務所にいると言ってあるので、机にいなければならない。ただ通用口は駐輪場のすぐ隣で、駐輪場には甘利の同期の皐月が休みなのにまだ残っている。あそこを通れば目が合う。店長が喫煙所でJKの話を立ち聞きしていたと知れたら、人生が終わりである。
高坂は灰の入った缶を持ったまま建物の南の壁に沿って表へ回る。
*
ピンポ~ン
表の玄関のチャイムは、店長が入ってもお客様と同じ様に鳴る。
待合のベンチにはまだ誰も座っていない。入口に公休明けの主任の仁科が立っていて、お客様用の笑顔のまま高坂の手元の缶を見て、鼻を少しだけ動かす。
「店長~、その匂いで待合を通るのはナシですよ~」
高坂は返事をせずに待合のベンチの前とレジの前を早足で抜け、レジの奥から中の廊下へ入って更衣室の並びの従業員トイレで手を洗い、うがいを二回する。
廊下を戻ってレジの奥の事務所に入り、デスクの椅子に座ると壁の時計はちょうど十七時で、手の中にはまだ缶がある。洗面台の端に置いたはずが、出る時にまた持って来ている。
ホワイトボードには昼に高坂が書いた十七時の配置が並んでいる。
”デシャップ 高坂(十七時四十五分まで仁科)”
”ご案内レジ 仁科”
”客席 秋山”
”研修 甘利 客席(秋山の横) バッシングとセットのみ”
来なかったら研修の行だけ消せばいい、と昼の高坂は思った。
コン、コン。
きっちり二回で、間が等しい。
「……失礼、致します」
甘利がドアを半分だけ開けて入って来る。紺色のカーディガンのボタンが一番上まで留まっていて、胸の前で駅前のパン屋の白い紙袋を両手で持っている。
高坂が椅子を半分だけ回すと、甘利は紙袋を差し出しかけて途中で止める。
「……制服と、名札が入ってます」
紙袋は胸の前に戻る。
「……でも。……続けたい、です」
エアコンの音に負けそうな声である。
――知っとる
高坂は知らない顔をする。仏頂面はこういう時にだけ役に立つ。
甘利の肩が少し上がったまま止まっている。次の言葉を待っている肩で、店長になんでと聞かれたら何と答えるか、その答えはたぶんどの紙にも書いていない。
高坂は聞かない。
「打刻は?」
甘利の目が床から上がる。
「……まだです。……制服を返しに来たのか、働きに来たのか、……どっちで押せばいいのかわからなくて」
決まりが無いとこの子は通用口の端末の前で止まるらしい。
「働くなら押す。押してから着替える。いつもどおりだ」
甘利は小さく頷くが足は動かない。
「……店長。……私は、教わったとおりにしました」
さっき駐輪場でも聞いた言葉である。ハロウィンの夜、奥の三十六卓でお客様を四十分待たせて怒られた時にも甘利はそう言った。高坂がその卓へ詫びに行き、九十度頭を下げた時である。
「……係の者を呼んで、伝えるまでは教わりました。……呼んだあとは、教わってません」
甘利は紙袋の持ち手を握り直す。
「……それを、教えてください。……客席が、まだ、怖いので」
高坂の口がポカンと開く。
――甘利が、自分から言いよった
目が一瞬だけ棚のファイルへ行く。あの中のハロウィンの夜の日報に、きのう甘利の電話を切ったあと高坂は研修のやり方を変える一行を書き足している。
「わかった。今日やる」
甘利はいつものお辞儀をしてドアを閉める。
*
十七時八分、事務所。
ドアが開くと、白地にパープルの縦縞のシャツの甘利が立っている。紙袋から出て来た制服で、畳んだ折り目が胸に一本まだ残っている。
甘利は読んだ印に連絡ノートに”甘利”と書き、ホワイトボードの研修の行を読む。”秋山の横”のところで目が止まり、手が胸のポケットのメモ帳に行きかけて戻る。
高坂は練習に使う物を探す。きのう皐月に教えた時は、ハロウィンの夜の日報に残っていた本物の注文をそのまま使ったが、今日はあれを出せない。甘利に見せたくない一行まで、一緒に見えてしまう。
デスクの上を見ると、缶がある。
「料理は、これでいい」
甘利の目が缶に行って、飲み口の黒い灰で止まる。
「店長。……事務所は、禁煙です」
「吸ってない。持って来ただけだ」
「……灰が」
「持って来ただけだ」
高坂は立ってソファに座り直し、前の低い机に缶を置く。
「ここが窓側の十五卓だ。俺がお客様。甘利は客席Aルーム担当で、呼ばれて来た」
甘利はソファの前に立ってお客様の目の高さまで腰を落とし、手をおへその前で組む。
「失礼、致します」
「これ、頼んだのと違う」
高坂の声は、いつもの淡々とした声のままである。
甘利は腰を落としたまま、役の外の小さな声で聞く。
「……お客様は、怒っていらっしゃいますか?」
「怒ってる」
甘利は一回まばたきをしてから斜め三十度に頭を下げる。
「……申し訳ございません。係の者を呼んでまいりますので、少々お待ちくださいませ」
甘利はドアのほうへ行って振り返る。
「……係の者は、どこですか?」
高坂は立ち上がってドアの前まで行き、甘利の横に並ぶ。
「ここがパントリーで、係も俺だ」
甘利は少しだけ高坂を見上げてから係の高坂に向き直る。
「……十五卓のお客様が、お呼びです」
高坂は係の顔になったつもりで言うが、顔はさっきと同じである。
「待ってもらって」
甘利は胸のポケットからメモ帳を出して書き、閉じてもドアの前に立ったまま動かない。
「で?」
甘利は黙っている。
高坂はソファに戻って座り、缶を見て壁の時計を見てドアの前の甘利を見る。
壁の時計の秒針が一周する。
「今、何分待った?」
「一分くらい、です」
「長かったか?」
甘利は少し考えてから小さく頷く。
「お客様は待つのは待てる。だが何を待ってるのかわからないのが長い。呼びに行った人が戻って来なければ、忘れられたと思うだろ?」
甘利のメモ帳がまた開く。
「呼んだら卓に戻る。『お待たせ致しました。係の者がまいりますので、少々お待ちくださいませ』係がすぐ来なかったら、もう一回呼びに行く。呼んだ人がその卓の責任を持つ」
甘利のペンが動く。高坂の所からは罫線しか見えない。高坂が首を少しだけ伸ばすと、甘利の体が見せない様に少しだけ横を向く。
「もう一回。呼ばれて来たところから」
二回目、甘利はドアまで行って、係の高坂に「十五卓のお客様が、お呼びです」と伝え、「待ってもらって」を書き留めて今度はソファまで戻って来る。
「……お待たせ、致しました」
「まだなの?」
高坂は顔を上げて甘利の顔を見て言う。
甘利の声が止まる。目は高坂を見ずに、高坂の後ろの事務所の壁のそのもっと向こうを見ている。組んだ手の指がおへその前でほどけかける。
高坂は顔を上げたまま待つ。お客様は目をそらさない。
「……係の者が、まいりますので」
声は小さく、途中で一回つかえる。
「……少々、お待ちくださいませ」
甘利の頭が下がって、上がる。
高坂の演じるお客様は、そこで終わらない。
「お待たせ致しました、って言ったよね。まだ待ってるんだけど」
係というのは誰なのか。何分で来るのか。最初に頼んだのと違うと言ったのは覚えているのか。そもそもこのコーヒーには灰が入っているよね?
ネチネチネチネチ
甘利の口は「あ」の形で止まっている。メモ帳へ行きかけた手が胸の前で止まり、高坂を見て完全にフリーズした。
――あかん、やりすぎた
高坂は缶を取って、飲み口をのぞいて机に戻す。
「……ウォホン、というお客様もたまにいる」
甘利の手がメモ帳を開いて、ペンが再び動き出す。
「書くな」
ペンが止まる。
「もう一回」
三回目も四回目も、高坂は同じ声で「まだなの?」とだけ言う。甘利は四回目でつかえなくなり、五回目で言う前に一回だけ息を吸う様になる。
壁の時計が十七時四十三分を指している。
「今日はここまで。覚えた事と出来る事は別だ。今夜は秋山の横で、バッシングとセットだけやれ」
甘利は頷いてメモ帳を胸のポケットに戻し、ドアの前で頭を下げる。
「……ありがとうございました」
ドアが閉まる。
*
高坂が棚からファイルを取ると、一番上にハロウィンの夜の日報が綴じてあって、何も書かれずに出された”対策”の欄に、きのう高坂が書き足した一行がある。
”研修は店長の出る日のみ。横につく者は店長が決める。どこまで教えたか毎回書き残す”
人の名前は一つも書いていなくて、字はいつもの高坂の字より少しだけ大きい。
ドアは閉まっていて、事務所には窓も無い。
「募集、出し直さんで済んだ」
高坂は一行を指でなぞる。
「……安う済んだわ」
低い机の上の缶を見る。
「三十六卓で俺、あいつの顔見てやれへんかったな……」
エアコンの音がしている。
高坂はファイルを棚に戻し、缶を取って事務所を出る。十七時四十五分である。
*
十九時二十分、デシャップ台。
祝日の夜の客席はどこも埋まっていて、キッチンの画面には注文の枠がいくつも並んでいる。高坂は上がった皿の縁をダスターで拭き、鉄板に顔を寄せて音がまだ立っているかを耳で確かめて、出す順を決め、ニゴーに載せる皿と人が運ぶ皿を手で分ける。手は呼ばれる前に次の皿のほうへ行っている。
画面の枠が一つ消え、二つ消えて、遅れを知らせる画面の赤いランプは一つも点いていない。
「店長~、鼻歌出てますよ~」
喫茶と料理運びを受け持つ高二の栗原が、しゃべる前から笑っている。
「出てない」
「出てました~。なんか昭和っぽいの」
それだけ言うと栗原は喫茶のトレーを持って笑ったまま出ていく。
デシャップ台から客席Aは見えず、高坂の所に届くのはパントリーの中の声と出入り口を出ていく背中までである。
キンコン♪
客席Aを持つ大学生の秋山が「はい、Aです」とパントリーに戻って来て、鉄板を両手に取る。そこへ下げ口にトレーを置く音がして、甘利の小さな声がする。
「……秋山さん。……十四卓のお客様が、お呼びです。お酒のご注文みたいです」
「これ置いたら行く。三十秒」
「お、お伝えして来ます」
高坂は振り返らずに皿の縁を拭きながら、目の端で縦縞のシャツの背中が出入り口を出ていくのを見る。背中はすぐ中央通路に消えて、十四卓で甘利が何と言ったのかは、デシャップ台までは届かない。
鉄板を置いて戻って来た秋山がハンディを取りながら言う。
「店長、甘利の横って俺で合ってます? ハロウィンの前に、甘利に客席の事教えたの俺ですけど」
「合ってる」
「なんで俺なんですか?」
「消すと、ボードが汚れる」
秋山はまっすぐな目で一回だけ高坂を見て、十四卓へ出ていく。
*
二十一時五十分、事務所。
あすの水曜は高坂の公休で、皐月の研修は仁科が見る事になっているが、昨日の出来事から研修は店長がいる日だけに決めた。仁科から研修を取り上げる事になるが、仁科の事だから仕事が一つ減って喜ぶだろう。そう思っているのに、仁科が来た十六時からまだ言い出せていない。
高校生が上がり、入口のお客様が引いたのを見て、仁科が「呼びました~?」とドアを閉めて入って来る。
高坂があすの皐月の研修の事を言いかけると、仁科のほうが先にしゃべり出す。喫茶の確かめで、チョコレートパフェを皐月に一人で作らせて、作業台の奥の壁の写真のカードと並べて見比べさせる。コーンフレークの高さも、ソースの線の数も見る。仕事が減って喜ぶどころか、もう自分で予定を組んで来ている。
「それは俺のいる日にやる。あすは今までのところを復習させろ」
「え~、なんでですか~?」
「俺のいない日にやると、どこまで出来たか聞くのが面倒だ」
「うわ~、店長らし~」と笑う仁科に、高坂はもう一つ言いつける。研修の子一人に一冊あるトレーニングノートには、やった事の横にトレーナーが一言書く欄がある。それをこれから主任が書く。今夜の甘利の分からである。
「今日、何やったんですか?」
「お客様に呼ばれたあと、卓に戻ってお客様に伝えるまで」
仁科が黙る。
ハロウィンの夜の日報を書いて、”対策”の欄を白いまま出したのは仁科である。
「はいはい、了解で~す」
声はいつもの軽さで、表情だけが固まっていて高坂にはその顔の中身が読めない。
仁科はドアのノブに手をかけてから振り返る。
「……てか、トレーニングノートって、あれまだ使ってたんですか~?」
霞ヶ丘では前の店長の頃から、あの欄にはほとんど誰も書いていない。十月に始まった皐月と甘利のノートも、高坂は書いていない。
「埃は自分で払え」
ドアが閉まる。
*
二十一時五十六分、廊下。
通用口の端末がピッ、ピッ、と続けて鳴る。上がった高校生たちのカードである。
休憩室の前で高坂はシフト表を見ている。きのう辞めると言ってきた甘利の名前が、線も引かれずに三日と五日と七日の夕方の欄に残っている。
更衣室から紺色のカーディガンが出て来る。空になった紙袋を小さく畳んで手に持っている。
「……お疲れ様でした」
甘利は斜め三十度に頭を下げて、それから少しだけ言い足す。
「……木曜も、よろしくお願いします」
高坂は頷く。
ピッ
通用口の端末が一枚のカードに鳴って、ドアが開く。開いた一瞬、高坂の目が駐輪場の灯りの下へ行く。そこにはもう誰もいない。
木曜の研修も高坂が見る。何をどう教えるかまだ何も決めていない。
面倒である。
本日の売上 計画 446,000円/実績 ――
本日の客数 計画 300人/実績 ――
本日の客単価 計画 1,487円/実績 ――
今月の累計 売上 前年比 ――/客数 前年比 ――




