第11話 ハロウィン・キッチンサイド
ピッ
”出勤 十七時〇〇分”
ピッ、ピッ。
通用口の端末が三枚のカードに続けて鳴る。一枚目の小幡 健吾は鳴り終わる前にもう廊下を歩き出している。
風林堂大学の一年生。月・火の夜はグリル、土曜の夜はキッチンのセンターに立つ。
「依田さん、今日何の日か知ってます?」
「……土曜」
「ハロウィンっすよ。俺ら今年もコックコートっす」
依田 遥は大学二年の女子で返事を一語で済ませる。
後ろで高校一年の武藤 壮太がカードをしまいながら「おれの妹、今かぼちゃっす」と言う。誰も聞いていないが本人は満足そうである。
休憩室の前の廊下の壁に半月分のシフト表が貼ってある。十一月前半の分で、先週の日曜に新しい店長が貼っていった紙である。
小幡は足を止めずに目だけを自分の行に走らせる。
月曜と火曜は二十三時までが二十二時までになっていて、土曜は十七時入りが十八時入りになっている。一日一時間ずつ、半月で六時間。
――六時間。俺の六時間どこ行ったんすか
店長には聞いていない。聞いたら「要らない」と言われる気がして聞けないまま一週間がたっていた。
*
事務所。
ドアの向こうのレジの横にオレンジ色のかぼちゃのランタンが三つ並び、天井から黒い紙のコウモリが糸で吊られてエアコンの風でくるくる回っている。
ホワイトボードの前に、胸の名札に「研修中」の札を付けたフロントの制服の女の子が二人立っている。
一人は背が小さくてボードの字を小さなメモ帳に一字ずつ写し、もう一人は腕を組んでボードを睨む様に読んでいる。
二人の前で新しい店長の白いシャツが何かを言い終えたところである。白シャツは背中を向け、小幡たち三人の横をすり抜けてデシャップ台のほうへ出ていく。
”デシャップ 高坂”
”ご案内レジ 仁科”
”センター なし 喫茶 高坂”
”客席Aルーム 秋山”
”客席Bルーム 駒井(センター→B)”
”研修 真田・甘利 バッシングとバスボックス交換のみ”
”キッチン グリル/馬場 センター/小幡 サラダ/依田 洗い場/武藤”
”曽根 欠勤”
――フロントのセンターなし。店長が喫茶もするんすか。一人で
小幡はボードの下の連絡ノートに名前を書き、武藤が書き、依田が書く。その上の行に丸くて小さい”甘利”と紙に食いこむ”真田”の字が並んでいる。
武藤がボードの名前と二人の名札を見比べ、口の中で「さなだ、あまり」と読む。
手洗いのシンクの前で三人は並んで一分三十秒、指の股と爪の間と手首までこすり、アルコールを吹きつけて持ち場に立つ。
*
十七時十分、キッチン。
「ニューオーダー、アジフライ定食ワン、ライス大盛り」
小幡の声がステンレスの台に気持ちよく響く。持ち場はデシャップ台のキッチン側の真ん中で、キッチンでただ一人パントリーのほうを向いて立つ。
背中にライスロボと保温ジャー。右手の奥がグリル、左手がサラダで、その先の洗い場で武藤がラックに皿を並べている。
台の向こうにはもう白いシャツが立っている。
「アジ大」
依田がフライヤーの前で振り向かずに言う。
「そうっす。アジ大のおじさん。毎週土曜の十七時過ぎ。今日も来たっすね~」
そのおじさんの顔は見た事が無い。ひと月前まで店長だった板垣に最初の土曜に教わった。
『顔が見えへんなら注文で覚えたらええ。注文はその人の顔や』
だから小幡の頭の中の客席には顔の代わりにあだ名が座っている。十四卓のアジ大のおじさん、窓際の常連でミートドリアとポテトを必ず一つずつ頼んで分けあう「半分こさん」、ライス小盛りを毎回二つ頼む「小盛り兄弟」。
ジジッとプリンターが鳴る。
「ニューオーダー、ミートドリアワン、ミックスグリル鉄板ワン、ライス並ワン」
鉄板の上がりを逆算して背中のライスロボのボタンを押すと、平たいライスの皿に白い山がぽこんと落ちて来る。先に上がったミートドリアを台に置くと店長の手がそれをニゴーのトレイに載せて卓番を押す。ニゴーはピと小さく鳴って客席へ出ていく。
グリルで焼き目を付けたハンバーグがオーブンをくぐって鉄板に移り、ジュッと音が一段高くなる。
小幡は二十二卓の紙にボールペンで今の時刻を書きこむ。ドリアはもう出ていて、この鉄板とライスで二十二卓の料理が全部そろう。その紙を上り伝票にして鉄板の木の台の端に添え、ライスの皿と並べて台に置く。
手元のボタンのBを押すとキンコン♪と客席に鳴ってボタンの横の小さな灯りが橙色に点く。
パントリーの出入り口からレディコールランプを見た駒井が入って来る。
駒井は「はい、Bです」と言いながら下げて来た什器をバスボックスに仕分ける。
「二十二卓、ミックスグリル、上り伝票です!」
駒井は「はい、了解」と仕分けながら背中で返し、振り返って台のパントリー側の消灯ボタンを押す。小幡の手元の橙色が消える。駒井は鉄板とライスをトレーに載せて出ていく。ここまで二十秒。
――今夜も余裕っす
橙色は点いては消え、点いては消える。いつもの土曜の夜のいつもの速さである。
小幡は台に皿を置くたびに、置いた手を少しだけ台の上に残す。見てもらう為の手である。
高坂は皿を見て、ニゴーに載せるかトレーに載せるかランプを待つかを決めて次の皿を見る。上がった皿が台の上に一分とどまる事は無い。
――ほら、ライスの形。完璧っすよ。見てます?
見ていない。
手が空いた一瞬に高坂は喫茶作業台でサンデーを一つ盛る。背の低い脚つきのグラスにぶどうのソースと黒いクッキーのクランチを敷いてかぼちゃのアイスを落とし、上からもソースを回しかけて白いホイップをぐるぐると高く絞って先を細く引く。チョコソースで目を二つと口を一つ。色とりどりのチョコの粒を散らし、かぼちゃのクッキーとコウモリのチョコのピックを立てる。
仏頂面の店長の手の中からおばけが一つ生まれてにっこり笑っている。
フライヤーの前の依田が上がったポテトを台に置きに振り向いてそのまま一瞬止まる。
「……かわいい」
「かわいくないっすよ、あの人が描いてんすよ」
「おばけは、かわいい」
依田はもうフライヤーのほうへ向き直っている。
高坂は描き終えたおばけを受け皿に載せてトレーで持ち、客席へ出ていく。
白シャツがいなくなるとキッチンの口数が増える。
「武藤くん、おまえの妹今何してんの?」
「パレードっす。双葉公園の。母ちゃんが縫ったかぼちゃっす。頭まで」
「頭まで」
「頭までかぼちゃっす」
依田の肩が一回だけ揺れるが、笑ったのかどうかは依田にしかわからない。
グリルの前では馬場ルーカスがターナーを一本持ってグリルの面を端から端までこすっている。二十四歳の夜のキッチンの柱で十三時から入っている。
「オバタ。パレード、なんじ、おわりますか?」
「十八時っすよ。なんでっすか?」
ルーカスは答えないでグリルの脇の壁を指さす。
そこに四角い付箋が何枚も貼ってあり、どれも色が抜けて端が丸まっている。”ソースの湯せん 蓋せえ”、”月曜の朝のポテト 一箱多め”、”雨の日曜は昼のパスタが出る”。どれも同じ右肩上がりの太い字。
ルーカスの指がそのうちの一枚で止まる。
”十月の最後の土よう 双葉公園で子どものパレード
十八時に終わったら かぼちゃが来るで
ハンバーグ 前の晩に多めに戻しとき”
日付はどこにも書いていないが、毎年十月の最後の土曜が来るたびに誰かが読む様に書いてある。
「え、じゃあ」
小幡がしゃがんでグリルの下の冷蔵の引き出しを開けると、ハンバーグのバットがいつもの土曜より二つ多い。
「ルーカスさん、これゆうべ解凍したんすか? 言ってくださいよ~」
「イタガキさん、かいた」
ルーカスは当たり前の事を言う顔で付箋にかるく頭を下げる。
――店長知ってんのかな
小幡は引き出しを閉める。
武藤がラックを持って来て小声で言う。
「小幡さん。パレードの話、店長にしないんすか?」
「するわけないっしょ。店長は知ってるって多分……」
ルーカスがグリルの前でうんうんとうなずく。
出入り口の枠の中を空のトレーを持った白シャツが戻って来る。
*
十八時五分、パントリーの出入り口の先の中央通路を黒いとんがり帽子が横切る。
小幡の目がデシャップ台の隙間に吸い寄せられる。保温ライトの下、皿を置く台とその上の棚のあいだの細い隙間から出入り口の枠の中が絵みたいに四角く見える。
枠の中を、案内する仁科主任の背中のすぐあとから魔女が歩いていき、その後ろを小さなかぼちゃが二つ転がる様に歩いていく。包帯をぐるぐる巻いた父親がその二つの襟首を両手でつまんでいる。
「来た来た来た」
ジジッ。
「ニューオーダー、お子様プレートツー、和風ハンバーグ鉄板ワン」
ジジッ。
「ニューオーダー、お子様プレートスリー、ポテトワン」
お子様プレートが五つ。小幡はライスの型としゃもじを並べる。
台の向こうで高坂の手が止まっている。
枠の中を主任に連れられた猫の耳の女の子と黒いマントの男の子が横切っていく。高坂は暫くそれを見て振り返らずに言う。
「ルーカス、ハンバーグは足りるか?」
「はい。たくさん、あります」
ルーカスは天井に届きそうな声で嬉しそうに答える。
高坂はほんの一拍だけ黙る。
「……そうか」
それだけ言って高坂は店の入口のほうへ早足で出ていく。
――知らなかったんだ
高坂はあの右肩上がりの字を読んだ事が無い。
*
十八時二十分。
出入り口の枠の中に斜めに見える三十五卓に、コウモリのカチューシャを付けた母親と小さな男の子が座る。いつもの土曜のお客様が席を立った卓が、端から仮装の家族で埋まっていく。
そこからプリンターが止まらなくなる。
ジジッ、ジジッ、ジジジッ。
「ニューオーダー、お子様プレートツー、ミックスグリル鉄板ワン、ライス並ワン」
「ニューオーダー、お子様うどんワン、お子様パンケーキワン、和風ハンバーグ鉄板ツー」
「ニューオーダー、きのこのデミグラスハンバーグ鉄板ワン、ライス小盛りワン」
小幡が読み終わる前にプリンターが次の紙を押し出し、キッチンの画面の表示が横に一列また一列と増えていく。
ルーカスがグリルにハンバーグを正確に並べ、依田は背中で読み上げを聞きながらフライヤーにエビフライとポテトを投入していく。
――来い来い来い
投入を続ける依田の代わりにお子様プレートの小さなハンバーグとポテトとエビフライを一枚にまとめ、丸めたライスに楓の葉の旗を立ててゼリーを添える。二枚そろったところでBを押す。
手元の橙色が点く。
「二十三卓、お子様プレートお願いします!」
駒井が来て消して持っていく。
また押す。点く。
手元の橙色が消えている時間が無くなる。
*
十八時半過ぎ、デシャップ台の向こうで声がする。
「持ち場に戻れ」
高坂の声は大きくないが短くて低く、キッチンの奥まで届く。
パントリーに戻って来た客席Aの秋山が台に並んだBの皿へ手を伸ばしかけて止めている。
「Aを空けるな。窓際の十六卓立つぞ」
秋山はまっすぐに頷いてトレーだけ持って出ていく。
入れ違いに駒井がハンディを握って飛びこみ、白シャツに何か言う。声は聞こえないが、駒井の顔つきで良くない状況だとわかる。
十八時三十五分、出入り口の枠の中の三十六卓に仮装していない二人連れが座る。
二人は保温のライトにさえぎられて肩から下しか見えない。灰色のカーディガンの肩と臙脂色のセーターの肩。
「ニューオーダー、ミックスグリル鉄板ワン、ライス並ワン、秋鮭ときのこのクリームパスタワン」
紙の頭の卓番は三十六卓。
――ミックス夫婦
小幡の頭の中では灰色の肩の前に鉄板が置かれてジュウと鳴り、カーディガンの人が顔を上げる。
*
十八時四十分。
台の向こうで高坂がサンデーのおばけに目を一つ描いたところで手を止め、台に並んだBルームの鉄板を二枚トレーに載せてランプを消して出ていく。喫茶作業台に目が片方だけのおばけが残る。
ジジッ。
「ニューオーダー、お子様プレートツー」
ジジッ。
「ニューオーダー、和風ハンバーグ鉄板ツー」
ジジッ。
「ニューオーダー……」
小幡は三枚目の紙を持ったまま声を止める。三枚とも卓番は二十七卓である。
”ライス並 二
本日のスープ 二”
字下げが無い。セットならハンバーグの下に一字下げて刷られるライスとスープが、単品で並んでいる。
「……ライス並ツー、本日のスープツー」
三枚の伝票
小幡は三枚の紙を台に並べる。指が三枚のあいだを行ったり来たりして、背中のライスロボのボタンの前で手が一度止まる。今盛るか、鉄板を待つか。
「セットなら安いのに。タブレットなら『セットにしますか』って出るのに。なんで三回に分けて入れてるんだろう」
「……フロントの事」
依田はスープウォーマーの蓋を開け、かぼちゃのポタージュを二つカップに注ぎながらちらりと下げ口の窓のほうを見た。
*
十八時五十五分、お子様プレートが二つ台の上で待っている。
楓の葉の旗が二本保温のライトの下に立っている。デシャップに上がってから二分、手元の橙色は点きっぱなしである。
「二十七卓、お子様プレートお願いします!」
二回目を呼んでも駒井は戻って来ないし、高坂もいない。
喫茶作業台の上では片目のおばけがパントリーのほうをじっと見ている。口はまだ無い。
――誰でもいいから取りに来いって
小幡は台の上の皿を見る。人が来なければここで冷めていく。
パントリーに声が響く。
「二十七卓のお子様プレート、誰か運んでください!!」
キッチンの全員の手が一瞬止まり、武藤が洗い場から顔を出す。店で一番大きな声である。
声の主は事務所でボードを睨んでいた研修中の子で胸の名札に”真田”。デシャップ台のパントリー側に来て台の上の皿を見ている。
「待ってるんです! ちっちゃい子が二人! 誰も来ないなら私が持って行きます!」
手が台の皿に伸びる。
「バッシングだけだ」
出入り口から戻って来た高坂の声に女の子の手が皿の手前で止まる。
高坂はお子様プレートを二枚トレーに載せ、ランプを消して出ていく。女の子は暫く台の前に立ち、唇を噛んで下げ口のほうへ戻っていく。
小幡は三枚の紙を見る。あの子は卓番も、子どもが二人だという事も知っていた。
――三枚の紙、入れたのあの子っすね
「……厄介なのが入ってきた」
*
十九時ごろ、洗い場。
下げ口の窓がバスボックスでふさがっている。
食洗機が一分で洗い上げるあいだに窓の向こうに次の箱が三つ積まれて、もう一つも入らない。武藤の横の棚では洗い上がりを待つ皿の山が高くなり、依田の棚の白い皿は一枚また一枚と減っていく。
――来ない。誰も箱取りに来ない
皿が切れたら依田のフライヤーの前で揚がったエビフライが行き場をなくす。入って二か月、武藤はまだ一度も切らした事が無い。
スイングドアがキイと鳴る。
”研修中”の名札を付けた背の小さい子がいっぱいのバスボックスを両手で抱えて入って来る。事務所でメモ帳にボードを写していた子である。
名札に”甘利”。
甘利は洗い場の手前に箱を下ろしドアのすぐ横の手洗いのシンクで手を洗いはじめる。
武藤は目を丸くする。
バスボックスを運んで来ただけでこのシンクで手を洗うフロントの人間を武藤は初めて見る。甘利は指の股までこすってペーパーで拭き、洗い上がったグラスのラックを持ち上げ、その上に空のバスボックスを一つ重ねる。
「……こちら、戻してよろしいですか?」
武藤はあわてて頭を下げる。
甘利はきっちり頭を下げ、スイングドアを背中で押して出ていく。
二分後にまた来る。いっぱいの箱を抱え、手を洗い空の箱とグラスのラックを持って帰る。
また来る。
窓がふさがる前に甘利が箱を運びこんで来るので、武藤は洗う事だけをしていられる。洗って拭いて戻した皿が、依田の棚にも小幡の台の下にも途切れずに積み上がっていく。
武藤は洗い上がりのラックをセンターへ運ぶ。
「小幡さん。今夜フロントに神がいるっす。甘利さんっす。研修のちっちゃいほう。おれ今夜皿切らさない気がするっす」
小幡は台の下の皿の高さを見る。いつもの土曜のピークの高さで、サラダの補助のいない夜にこれは無い。
「神、了解」
ルーカスがグリルの前で振り返る。
「かみさま?」
武藤がルーカスに向き直り一語ずつゆっくり言う。
「甘利さん。研修の子。神っす」
「アマリ。かみさま」
ルーカスは真顔で一回頷いてグリルに向き直る。
*
同じ十九時、センター。
台の向こうで高坂が台の上の皿と画面の赤いランプを一度見渡す。
「レジに入る。団体の個別会計だ」
言い終わる前に白いシャツは出入り口の外へ消えている。
同じ一分のうちにルーカスがグリルから振り返る。
「ミックスグリル、あがりました」
小幡が画面を見ると三十六卓のランプはとっくに赤く、注文から二十五分あまり。今夜のグリルに並んだハンバーグの列の一番後ろにいた一枚である。
鉄板の上でハンバーグとソーセージとチキンがジュウジュウ鳴り、ソースの湯気が立っている。パスタはさっきニゴーが運んでいって、この鉄板とライスが三十六卓の最後の一皿である。
灰色のカーディガンの肩がこの鉄板を待っている。
小幡は紙に時刻を書いて鉄板に添え、横にライスの皿を並べてBを押す。
「三十六卓、ミックスグリル、上り伝票です!」
手元の橙色が点いても誰も来ない。
「三十六卓、ミックスグリル、上り伝票です!」
誰も来ない。台の向こうのパントリーががらんとして、喫茶作業台の片目のおばけのサンデーは、かぼちゃのアイスがグラスの縁で溶けて頭が少し傾いている。
鉄板の音が少しずつ低くなっていく。
ジジッ。
「ニューオーダー、お子様プレートワン、ミートドリアワン」
伝票は止まらず、皿も止まらない。二十四卓の和風ハンバーグと三十四卓のクリームパスタが上がる。ニゴーに載せるはずのパスタとライスが台の端に並んでいく。
台のパントリー側でニゴーがトレイを空にしたまま、載せてくれる手を待っている。
小幡は並んだ皿の端から端まで目で数える。六皿。
右手の奥でルーカスが次のハンバーグをグリルに並べていく。
――誰か。誰でもいいって
下げ口の作業台で甘利がバスボックスを仕分けている。台のすぐ横である。皿、グラス、カトラリーと甘利の手は速く止まらない。
手を伸ばせば届く所に料理が並んでいるが、甘利はそっちを見ない。研修の二人はバッシングとバスボックスだけだと、ボードに書いてあった。
小幡の親指がBのボタンの隣のAの上に浮く。
「……Aは秋山さんの」
依田が振り向かないまま言う。
小幡の親指がAの上から降りる。Aを押せば秋山が来て、秋山が来れば秋山の窓際が空く。
「わかってますよ」
小幡の声がほんの少し尖る。
キッチンの人間は台の外へ出ない。小幡は台の内側で皿を見ている。
十九時五分、ふと見ると下げ口の作業台に甘利がいない。仕分けかけのバスボックスが置いたままになっている。
――神どこ行ったんすか
見ている暇は無い。紙が出る。読んでライスを盛って置く。台の上の皿が七皿、八皿と増えていく。
鉄板の音が止まる。
黙ったミックスグリルのソースの表面に薄い膜が張っている。
*
十九時九分、高坂が出入り口から戻って来る。
台の前を素通りして洗い場のスイングドアを押して入って来る。小幡の左手の奥で手洗いのシンクの水が流れる。レジを触ってきた手である。
水が止まり、高坂が台の向こうに戻る。
高坂は台の上を端から端まで一度で見る。十一皿と画面の赤いランプと音の止まった鉄板。
高坂は鉄板の前で止まり、手のひらを鉄板の上にかざして一秒考える。
温め直さない。
高坂は鉄板つかみで鉄板を木の台からはずし、台の脇のごみ箱の上で傾ける。ハンバーグとソーセージとチキンとポテトとコーンといんげんがソースごと、ごみ箱の中へ落ちていく。
「三十六卓のミックスグリル、作り直し」
小幡が通すとグリルの前から返ってくる。
「かしこまりました」
ルーカスの声はいつもと同じ、店で一番きれいな「かしこまりました」である。ルーカスは引き出しを開けてハンバーグを一枚トングでグリルに置く。二十五分待ってやっと上がった一枚がごみ箱の中にあるが、ルーカスはそっちを見ない。
小幡は台の上で九分待っていたライスの皿を引き寄せごみ箱に入れる。
高坂は残りの九皿をトレーとニゴーに一気に振り分け、ランプを消して出ていく。
「……余裕っす」
*
十九時十五分、小幡はデシャップ台の隙間から出入り口の枠の中を見る。
三十六卓で臙脂色のセーターが立ち上がっている。
立ったので顔が見える。
五十代くらいの女の人で短い髪で眼鏡をかけている。眉が上がり、口が大きく開いて何かを言っている。顔は枠の外の通路のほうを向いている。
プリンターとフライヤーと食洗機の音で声はここまで届かない。
その顔は怒っている。
枠の中を白いシャツの背中がまっすぐその顔のほうへ歩いていく。急いでいるのに走らない背中である。
小幡は隙間から目を離せない。
あの卓が待っていた皿はさっきごみ箱に落ちた。
ジジッ。
プリンターが紙を押し出す。
小幡は紙を持つ。口が開く。
声が、出ない。
いつも笑顔のルーカスから表情が消え、依田の食材の投入テンポも遅れが目立つ。フライヤーはもういっぱいで入れるところが無い。
――俺が見たかったの、こんな光景じゃねえよ
小幡は息を吸う。
「……ニューオーダー、ポテトワン、和風ハンバーグ皿ワン」
声が少しだけかすれる。
「かしこまりました」
ルーカスの声がいつもと同じに返ってきて、依田のトングがまた動き出す。
十九時十八分、作り直したミックスグリルが新しい鉄板の上でジュウと大きく鳴る。小幡は上がりに合わせて盛ったライスを横に並べる。
小幡がBを押すより先に台の向こうに白シャツが戻って来ている。高坂は鉄板とライスをトレーに載せ、上り伝票を取って何も言わずに出ていく。
上がってから五秒。
小幡はもう隙間をのぞかない。
*
十九時二十分からキッチンの中で言葉が消えていく。
あだ名が出ない。アジ大も小盛り兄弟も出ないし、「来い来い来い」も出ない。
「ニューオーダー」と「かしこまりました」と「お願いします」と、ジジッ、ジジッ、ガシャン。
依田は一度も振り向かず、ルーカスのターナーは止まらず、武藤は皿を切らさない。甘利がボックスを運んで来るたびにスイングドアがキイと鳴って手洗いのシンクで水が流れる。
喫茶作業台の片目のおばけはいつのまにか消えている。新しいグラスの上で新しいおばけが両目で笑っている。
デシャップ台の向こうで高坂の指示が何度か低く飛ぶ。
「料理が先だ」
「下げは、戻りのついでだ」
パントリーの床を真田の小走りの足音が横切る。
「皐月、走るな」
「皐月、そこは違う。下げ口だ」
笑っている顔は台のこっち側にも向こう側にも一つも無い。十七時にかぼちゃの頭の話で揺れていた依田の肩は揺れない。
十九時五十五分ごろ、高坂がまた台を離れて入口のほうへ出ていく。
暫くして戻って来た白いシャツは、また台の前を素通りして洗い場のスイングドアを押す。小幡の左手の奥で手洗いのシンクの水が短く流れる。
台に戻った高坂のネクタイが少しだけ曲がっている。高坂は直さないまま次の皿を見る。
二十時四十分、デシャップ台に立つのは仁科である。高坂は事務所で発注をしている。
「十五卓、ミートドリア、上り伝票です」
「了解。十五卓」
小幡は、あれ? と思う。
いつもの仁科なら「小幡く~ん、ありがと~」である。
――主任の「~」まで無い
*
二十一時四十分、洗い場。
スイングドアがキイと鳴る。
甘利が最後のバスボックスを抱えて入って来る。中身は半分しか無い。
甘利は箱を下ろし手洗いのシンクで今夜何十回目かの手洗いをする。
紙の間が少しあいた一分に小幡は武藤に回すバットを持って洗い場へ歩いて来る。
高坂は台の向こうにいるが、洗い場の奥は食洗機がガシャンと鳴るたびに声が届かなくなる。
小幡は甘利の横で立ち止まる。
「甘利さん」
甘利の手が止まる。
「……はい」
振り向いた甘利の顔を小幡は正面から見る。
「今夜キッチンで甘利さんの事”神”って呼んでたっす」
甘利のまつ毛が二回動く。
「……かみ?」
「補助いない夜に皿が一枚も切れなかったの、甘利さんがボックス運んでくれたからっす。ルーカスさんも神って言ってました。あの人、意味わかってるか知らないっすけど」
洗い場の奥で武藤が大きく頷いている。
「キッチンからはフロントの人よく見えないんすよ。料理食べてる人の顔も。だから言いに来ました」
甘利は黙ったまま濡れた手を拭くのも忘れている。
それから胸のポケットから小さなメモ帳を出し、濡れた指のままペンを持つ。
「もう一度お願いします!」
「え?」
「……今の一字一句写したいので」
「メモしなくていいっす!」
武藤が食洗機の前で吹き出すが、小幡は吹き出さない。
小幡は頭を掻こうとしてキッチンキャップの上から掻く。
「……神っす。今夜甘利さん神でした。以上っす」
甘利はメモ帳に”神”と一字だけ書くと紙に小さな水の染みが出来る。
そしてきっちり斜め三十度頭を下げる。
「……ありがとう、ございます」
顔を上げた甘利の口の端がほんの少しだけ上がっている。
*
二十一時四十五分。
「上がっていいぞ。あとは俺がやる。お疲れ様」
パントリーから高坂の声がする。高校生に向けた声である。
武藤が洗い場で顔を上げる。
スイングドアが開いて、白シャツが入って来る。
高坂は棚から新しいキッチンキャップを取って髪を押しこみ、ドアの横の鏡で髪が出ていないかを確かめる。白いシャツの袖を二回折り、ネクタイをシャツの胸のポケットに突っこむ。コックコートには着替えない。
シンクで手を洗って武藤のいた洗い場に立つ。
武藤は頭を下げて上がる。小幡の横を通る時に小さな声で言う。
「店長、洗い場出来るんすかね?」
「知らねっすよ」
食洗機の扉がガシャンと下りて一分後にガシャンと上がる。高坂がラックを引き出す手つきは武藤より少しだけ速い。
ジジッ。小幡は伝票を読みライスを盛り、台に皿を置く。
置いた手はすぐに引っこむ。台の上に残しておく理由がもう無い。
*
二十二時。
「おはようございます」
通用口のほうから内藤の声がする。深夜の責任者の内藤はキッチンに入って来るとグリルのルーカスとサラダの依田とセンターの小幡と洗い場の高坂に一人ずつ顔を向ける。
何も聞かないで今夜のキッチンの顔を見て頭を深く下げる。
「ナイトウさん。グリル、おわたしします」
「お預かり致します。お預かりさせていただきます」
ルーカスはソースの湯せんと引き出しの残りの数と明日の朝の解凍の分を一つずつ内藤に伝えていく。ハンバーグのバットは一つだけ残っている。
「ハンバーグ、たりました」
ルーカスがグリルの脇の壁の付箋を指でかるく叩く。
「イタガキさん、ただしい」
天井に届きそうな声で笑う。
依田が上がり、ルーカスが上がって、キッチンには小幡と内藤と洗い場の白シャツが残る。
「小幡」
洗い場から高坂の声がする。
「皿は足りてるか?」
小幡は台の下の皿の山を見る。補助のいない夜に最後まで一度も切れなかった山である。
「……余裕っす」
本日の売上 計画 573,000円/実績 ――
本日の客数 計画 374人/実績 ――
本日の客単価 計画 1,532円/実績 ――
今月の累計 売上 前年比 ――/客数 前年比 ――




