「夢魔」④
* * *
土曜日になるまで、私は相談すべきか、すべきでないかという事について逡巡し続けた。
いや、本当は相談すべきだという事は分かっているのだが、どうしても切り出せなかったという方が近いだろう。幸いにもその間、あの夢を見るのは夜だけで、学校で居眠りをしてしまった時に見る事も、ましてや何かをしている時に急に白昼夢が訪れるという事もなかった。
しかし、私自身の月の巡りを考えて、来週中にはきっとまた生理が来る、と思った時、私は腹を決めた。
苦痛の感覚が似ているのだ。来週に起こるであろうそれのせいで、夢が次の段階に進むのが恐ろしかった。正確には、病院を受診するなど、何らかの措置を取らないままにしておく事に不安を覚えていた。
普段、父は母よりも早く就寝し、専業主婦の母は私が「おやすみ」を言って自室に引っ込んだ後、家の中の諸々が一段落したところでリビングで動画を視聴したりなどして日付が変わる頃まで寛ぎ、それから寝室に行く事が多い。その日も、母は家族の中でいちばん最後まで一階に居た。
父が寝室に入って扉を閉めた音が聞こえてから、やや暫し待って──父はいつも就寝してから寝息が聞こえ始めるのが早い──、私は階段を下りた。やはり、母はリビングでカフェラテのカップを傍らに置いてお気に入りのアーティストのミュージックビデオを視聴していたが、私が扉を開けるとすぐにイヤホンを外してこちらを振り返った。
「詩穂? どうかしたの?」
「えっとね……お母さん。ちょっと、話したい事があって」
何も言わないで聞いてくれる? と確認すると、母はこちらの表情と口調から何か察するものがあったのだろう、動画を停止し、「まあ、とにかくお座りなさい」とソファを勧めてきた。
私は腰を下ろすと、ソファの上で両膝を立て、体育座りをした。
どのように切り出すべきだろうか、と少し迷ってから、「実は」から話を始める事にした。
夢の中で犯されている、という事をいちばん最初に言うと、母はやや表情を強張らせたようだったが、そのまま真剣な面持ちで、時折肯くようにしながら私の話を聴いてくれた。それで次第に私も、舌に潤滑油が注されたかの如く滔々と、これまでは言えなかった事を口から紡ぎ出していった。
小学三年の頃からその夢が始まった、という事を話した時、母はその頃私が夜に起き出し、「怖い夢を見た」と訴えた事が何度もあった、という事を思い出したらしかった。
思えば当時は、今よりも就寝時間がずっと早く、遅くても九時半を過ぎる頃にはベッドに入っていた。恐らく、その頃私が夢を見て目を覚まし、母にその事を訴えに行っていた時も、丁度今と同じくらいの時刻だったのだろう。
「私、どうしちゃったんだろう?」
最終的には、感情が昂ったのだろう、私は無意識のうちに、嗚咽を堪えるかのように声を震わせてそう言っていた。
「麻耶からも言われた。小三の時に、そんな夢を見られるはずがないって。私もそう思う──だったら、私に何かあったって事? それとも本当に、私はあの頃からずっと、寝ている間に誰かに……」
そこまで言った時、お腹の底の方がすっと冷えたような気がした。
微かに疼きを生じる。その感覚は、生理痛よりはずっと軽く、例の夢から覚めた時のものに似ていた。だが、その冷たさが私をぞっとさせた。
確かに快感を伴って感じられるようになってしまった事が、私を悩ませ、当惑させていた。しかし今は、自らの中に温かく注がれていたように感じられていたものの正体がはっきりとし、温度を持っていなかった事に気付いてしまった、という事が私に恐れを与えた。
膝を一層強く抱え込んで体の前面に押し当て、身を守るようにした。それは、疼きを押さえつけようとするかのようでもあった。
母は最後まで黙って聴き、私を汚らわしいというような目で見る事もなかった。私が言葉を切ると、矢庭にふっと息を吐き、
「……まさかね」
独りごつようにも聞こえる声色で、そう呟いた。
「お母さんやお父さんが思っていた以上に、あの事が深刻だったって事かしら? ああ、詩穂、誤解しないでね。あなたが思っている通り、誓ってあなた自身が小さい頃に何かをされた訳じゃないのよ」
「あの事って?」
「お母さんも、まだ『もしかしたら』って思う程度の事なんだけど──」
母は背筋を伸ばし、あたかもこれから大事な事を告げる、と言うかのように姿勢を整えた。
「あなたが、本当に小さい時の事よ。まだ三つ──いえ、三つにすらなっていない頃かも。思えばその頃からあなたは、そうね、感受性のようなものがとても強かったんでしょう。私たちがあなたを見ていてそういう風に感じるようになったのは、もっと後になってからだったけれど。
多分、思い出としては覚えていないんでしょうね。けれど、ずっと心の何処かに残っていたのかもしれないわ。詩穂、あなたは……私たち両親の、夫婦の営みの現場を見たのよ」
母の言葉に、私ははっとした。
途端に、脳裏に一つの映像が浮かぶ。それは恐らく、私がそのまま目の当たりにした光景ではなく、今母から告げられた事で心の奥底に封じ込められていたその時の感覚が刺激され、改めて脳裏で再現されたイメージだと思う。
三歳前後であれば、当然のように私は夜、両親と共に眠っていた。当時はベッドではなく布団を並べて敷き伸べ、私は両親の間に挟まれるような形で眠るのが基本的な形だった。
トイレに行きたくなったのか、喉が渇いたのか、或いは今とはまた違った、子供であるが故に見る類の怖い夢を見たのか、私は深夜に目を覚ました。そして最初に気付いたのは、いつも眠っている間に徐々に移動してしまっている隣の布団から、母の姿が消えている事だった。
背後で呻くような声が聞こえ、振り返ると、母は父の方の布団に移っていた。毛布が跳ね除けられて乱れ、その上に居る二人は裸だった。
当時は私も父や母と風呂に入る事はあったので、彼らの裸体は目にした事があったし、男の体が私や母とは異なる造りになっている事も知っていたはずだ。だが、その時は間違いなく、彼らの状態は”不自然”だった。
暗闇の中で、目を覚ましたばかりの私がそこまではっきりと彼らの姿を見る事が出来たとは思わない。だから、やはりこれはイメージだろう。
ただ、私は両親が──幼い自分にとっては大人の代表であり、優しく上品で、かつ威厳のある彼らが決して普段見せる事のない表情を湛え、それを行っていた事に、何を思っただろう。
性的に快楽が伴うという事を、知る由もない年齢だ。その頃の自分にとって有り得ない形で体を結合させ、かつ苦しそうに息を上げている母を見て、私は「痛そう」と思ったのではないか。
「真夜中の事だったし、あなたは怖い夢を見たんだと思ったのかもしれない。あなたが泣き出して、起きている事に気付いたお母さんは、すぐに寝かしつけて、怖い夢を見たのよ、って言い聞かせた。あなたも、それで子供ながらに必死で納得しようとしたんでしょうね。朝起きて暫らく経つと夜に見ていた夢を忘れてしまうみたいに、次の日からも特にお母さんたちをおかしな目で見るような事はなかった。本当に、夜中に自分の見た光景は夢だったと思ったんでしょう。
だけど、やっぱり心の何処かに残っているものはあったんでしょうね。一般的に女の子は、ある程度年齢が上がると父親を避けるようになるらしいけど、詩穂は三歳の時にはもうお父さんに反抗を始めていたわ。その代わり小学校に入ってからは、同級生の女の子たちが父親を疎ましく思うようになっても、ずっと『パパ』って呼んで懐いていたけど」
母に言われて、私はやや気恥ずかしくなる。
咳払いをし、「それで」と言った。
「お母さんたちはその後……私を見て、気まずくなったり、怖くなったりする事とかはなかったの?」
「怖く? どうして?」
「もし私がその事を思い出して、こんな夢を見たんだけど、みたいな乗りで友達に話したりするかも、とか……勿論私は、もうそういう事をしてるから汚い、とか、考えないよ。だってそうしなきゃ、赤ちゃんは生まれないんだもの。けど、それでも子供が知るにはまだ早いって事、一杯あるでしょ?」
「そうね──」
母は、やや遠くを見るような目になった。
「あなたが、物事に感じやすいって事はその頃から分かっていたわ。それは、あなたが優しい心を持っているからだって思ってはいたけれど。もし、また同じようなところを見られたら、今度こそごまかしようがなくなると思った。
お母さんとお父さんは話し合って、あなたが大きくなって一人で寝られるようになるまでは、そういう事をするのは控えた方がいい、って事になった。本当は結婚する前から子供は二人くらい欲しいねって話していたし、詩穂も近所の子と遊ぶようになって、自分にも弟か妹が居たらいいのに、って言っていたけど……だけど、こういう事が続いたら、あなたには」
母はそこまで言い、やや言葉を探すように視線を下げた。
「──トラウマになってしまうかもしれない、って思ったの」
「………」
確かにそうかもしれない、と私は思った。
いや、既にそうなっているのかもしれない。小学三年生の頃、私は何かの弾みで幼少期の記憶を刺激され、「痛そう」と思った時の事を、想像の中であたかも自分自身の事のように体験したのだろう。
当たり前の事だが、私は処女だ。その行為が実際にはどのような感覚を伴い、どのような心理的変化をもたらすのかを、まだ知らない。
全ては、イメージによって作られた夢だった。「痛そう」と思ったから夢の中では痛みを覚え、また最近になって、そういう営みの具体性と、それに悦楽が伴う事を知識として知った為、自らを不安にさせるような快感を苦痛と共に感じるようになったのだ。
ではいつか、本当のそれを理解した時──私は、いつになるのかも分からないような可能性を脳裏に過ぎらせる。
私は、夢と現実の区別がつかなくなるのではないか。
「……ありがとう、お母さん。話してくれて」
停滞しかけた空気を払うように、私はそう言った。実際に、母はこれを話すのに非常に勇気が要っただろう、と思っていた。母は自らの気持ちを抑えて、悩む私の為にこの事を打ち明けてくれたのだ。
「多分、これでもう大丈夫だと思う」
「心配なら、お母さんと一緒に病院に行く? お母さんが話したのは、あくまでももしかしたらっていうだけの事だし」
「続くようなら、そうする。大丈夫、少なくともこれで怖くはなくなったから」
私は言い、母がそれ以上何かを言う前にソファから立ち上がった。廊下に出るドアの方に向かいつつ、振り返って「おやすみ」と言う。
母はまだ何かを言いたげだったが、
「おやすみ、詩穂」
結局それ以上の事は言わず、私の「おやすみ」に応じた。
* * *
自室に戻ると、私は電気を消し、ベッドに潜り込んだ。
今までのスパンから考えて、もしかしたら今夜、例の夢を見る可能性は十分に有り得るな、と思った。それとも本当に、これからはもう、あの夢を見る事はなくなるのだろうか。
母はあくまでも可能性の一つで、鵜呑みにはしないようにというような事を繰り返したが、私は幼少期に見た大人の世界の一部こそが、夢のイメージの源泉なのだと確信していた。未知の何かに夜な夜な犯されていると考えるよりは、それは余程現実的で、怖くない事だった。
これで私は、夢の中での行為、同級生たちが「したい」という願望を抱くような魅力的な事を、心置きなく楽しめるのだろうか、と考え、はっとした。
私はタオルケットの中で、パジャマのボタンを外し、ショートパンツから肢を引き抜いていた。下着に手を触れ、そこで我に返る。が、刹那の躊躇を経た後、私はそれも脱ぎ捨てた。
微かにひんやりとしたタオルケットが肌に直接触れるのを心地良く感じながら、睡魔が訪れるのを待った。
眠りに落ちる直前、そういえば夢の中で、私の相手をしているのは一体誰なのだろう、という疑問が浮かんだが、それはたちまち忘却された。
(夢魔・終)
お読み下さりありがとうございます。「夢魔」はこれでおしまいです。本作は「イメージ」の恐ろしさという点でサイコホラーを意識しましたが、どちらかというと藍原作品でありがちな、徐々に実体が定まっていく恐怖に近しいものがあります。元来西洋の伝承に於ける夢魔(インキュバス、サキュバス)は、夢の中に現れて性交を行わせる悪魔でした。
本作の詩穂のように、物心ついて間もない頃に両親の行為の様子を夜中に見てしまったというケースはかなり極端ですが、そこまでは行かずとも幼少期に強烈なものを見るとやはり恐怖の象徴としてのイメージは形成されるでしょう。私は昔、『○○○○○○○』という絵本で○に○○○○の○○が○○○○た写真を目にして以来集合体恐怖症です。特に○○○○の○○自体は本当に無理で、ある時誤って直視した結果ひきつけを起こしかけました。
ところで、夢と心理的恐怖と性と聞いて私が真っ先に頭に浮かべるのは、角川文庫の夢野久作作品の表紙になっている米倉斉加年の絵です。あの絵は、凄い作品である事は分かりますが、単純な私の好みとして好きになれません。




