「夢魔」①
息が苦しい。体の奥底、何処とも表白し難い部分に痛みを覚える。胸から腹にかけて、絶えず骨と内臓を圧迫されるような不快感があった。見えない部分で出血でも起こっているのか、痛みの中枢から液体の流れる感覚がある。
焼かれているように熱かった。のたうち、転げ回りたい程なのに、金縛りに遭ったかの如く体が動かない。
自らが破壊される、と思った時、唐突に全ての感覚が消えた。
苦痛がなくなった──その事自体が、眠気に抗い続けてやっと入ったベッドで眠りに落ちる瞬間のように心地良かった。
* * *
意識を失っていた時間が、どれくらいだったのかは分からない。
ぼんやりと瞼を開くと、天井付近にカーテンレールが見えた。私はベッドに横たわっており、四方をカーテンに取り囲まれていた。
靄の掛かっていた視界がはっきりしてくるに連れて、カーテンレールがそのような高い位置にある訳がない、という事に思い至る。どうやら、まだ遠近感が取り戻されていないらしい。
マットレスに接触している体が、微かにべたついた。身を起こそうとして重さを感じ、何重にも毛布が掛けられている事に気付く。夏だというのに随分厳重だな、と思ってから、私は自分の身に着けているものが、学校指定の水着である事に気付いて愕然となった。
泳ぐ為に束ねていた長い髪が、まだ微かに湿り気を帯びていた。
まず、ここが中学校の保健室である、という事を理解した。
気を失う前の事を思い出そうとし、頭を押さえた。確か、体育の授業で、水泳の時間だったはずだ。では、私は泳いでいる最中に溺れたのか──と考え、数秒の後、すぐに「違う」と自ら否定した。
授業自体は、もう終わっていた。シャワーを浴び、更衣室で着替えている最中のはずだった。
着替えと移動の為、水泳の授業は通常よりも早めに切り上げられる。それをいい事に、私たちはいつも更衣室でだらだらと雑談したり、度胸のある子の中には、校則で持ち込みの禁止されているスマートフォンを弄ったり、スナック菓子を食べている者も居た。
私はそこまではしないが、クラスメイトの麻耶と雑談に花を咲かせながらだらだらと着替えていた。最初はいつものように、次の授業がだるいとか、プールの後だから眠いとかいった話をしていたが、何がどうなったのか、途中から麻耶主導で話の内容が下品なものになった。
中学校に入ると、何故か知らないが男子は猥談をしたがるようになる。ただ、そういった方面で知っている単語を大っぴらに口にする事に、心血を注ぐといえば大袈裟になるが、私の目にはどうも必死になっているかのように映る。
麻耶はクラスの女子の中ではかなりあけっぴろげな方で、サッカー部の中で紅一点という事もある為か、小学校時代の彼女よりもずっと男の子っぽくなった。だから私に対してもそういう言葉を囁き、こちらの反応を見て面白がっている事もあるが、私はいつも「はいはい」と軽く遇っていた。
水泳の時間は、薄着になるし、同性同士だとどうしても普段は見せ合わないような部分まで見せ合う事になるからか、麻耶の”攻撃”──決して深刻に受け止めるようなものではないが──は一層激しくなる。同級生の中には、決して下品な意図ではなく互いのスタイルについて褒め合ったり羨み合ったりしている者たちも居るが、彼女は恐らくその延長線上にあるようなノリで、私に
「詩穂、またちょっと大きくなったんじゃない?」
と言って、後ろから戯れてきた。
ポンチョ型のバスタオルから頭を出そうとしている最中だった。死角から急に襲われ、くすぐられた為、私はつい笑ってしまった。そのせいで、麻耶は私がいつの間にか過呼吸を起こしていた事に気付くのが遅れたのだと思う。
そう──私は、そこで過呼吸を起こしたのだ。
「いい子ちゃんもすっかり色気づいて……ってあれ? 詩穂?」
麻耶の声が、遠く聞こえた。
自分でも、あれ、と思い、その時には既に私の意識は朦朧としていた。
そして気付いた時には、あの夢の中だった。
(夢……そう、夢なんだ……大丈夫)
思い出した途端、先程夢の中で味わっていた感覚が蘇ってきたかのように、胸郭の内側で心臓が激しく拍動を始めた。それが肋骨を叩いているようにも感じられ、痛みを覚える。私は発育途中の胸の上に掌を押し当て、その拍動を無理矢理自らの内側に抑え込もうとする。
今度こそ身を起こし、枕元の机──教室にあるのと同じようなものだ──の上に自分の水泳用バッグが置かれている事を確かめる。私が気を失った時、ここまで運んでくれたのであろう麻耶たちが持って来てくれていたらしい。私は毛布の中に潜り込むようにして、既に乾いていた水着を脱ぎ、ジャージに着替える。風邪をひかないように保健室の先生が体を拭いてくれていたらしく、殆ど水分は抜けていたが、如何せん体にぴったりとフィットするような素材が用いられているので、着替えさせるのは無理だったのだろう。
あの夢を見て脈拍が速まっていた為か、毛布を厚く掛けられていた為か、寝汗をかいていたらしく少し肌寒かった。夏場は基本的にいつも半袖だが、私は長袖の上着を羽織り、カーテンを開ける。
廊下から、教室移動を行っているらしい生徒たちの声が聞こえてきた。気を失っていた時間はそれ程長くはなく、まだ休み時間のようだ。だから、保健室には同じくジャージ姿の麻耶が居た。
先生と何やら話をしていたらしい彼女だったが、私がカーテンを開けた音を聞くや否や、はっとしたようにこちらを向いた。
「詩穂!」
彼女は安堵したように小さく叫び、小走りで駆け寄って来た。
「大丈夫!? 急に倒れるからびっくりしたよ!」
「ごめんね、麻耶……ありがとう。私の事、運んでくれたの麻耶だよね?」
「桃花たちにも手伝って貰ったけどね。貧血──とかじゃないみたいだったし、本当にどうしたの?」
彼女は私に接近して来ると、今度は他意なく、純粋にこちらを心配する気持ちから身を寄せ、抱擁するように背中に手を回してこようとした。その途端、彼女の指先が微かに胸に触れそうになり、私は反射的に体を強張らせてしまう。
思いがけない反応に戸惑ったのだろう、麻耶もはっとしたように動きを止め、両手をだらりと垂らした。
「ご、ごめん……」
「ああ、そんな! いいの、気にしないで。ちょっと、パニクっちゃって」
私は慌てて、両手首を素早く振った。
そう、麻耶から物理的な接触を試みられる事は珍しくない。今回問題だった事は恐らく、私と彼女が、お互いに身に着けているものが少なく、直接肌に触れられる感覚に近かった事だと思う。
──そう、私は、自分が何故過呼吸を起こして失神したのかについて、既に思い当たっている事がある。
今の反応は、先程気を失った事による過剰な防衛反応だろう。私は俯き気味に深呼吸し、先程まで見ていた夢と、麻耶との間には何の関係もないのだ、と自らに言い聞かせる。
「本当に大丈夫? 無理しちゃ駄目よ」
保健室の先生が、体温計を持って椅子から立ち上がった。
「三時間目も、ここで休んでた方がいいんじゃない?」
「いえ、本当に大丈夫です! ……ありがとうございます、先生」
私は言ったが、先生はまだ納得しきれない、という風にこちらの顔をまじまじと見つめてきた。
「何か、持病とかはない? これまで、同じような事があった経験は?」
「いえ……ありません」
「そう? だけど、プールに入っている最中じゃなかったのが不幸中の幸いだったわね。そうだったら溺れて、もっと深刻な事になっていたかもしれないわよ」
「はい……そうなると危ないので、今度病院でしっかり診て貰います。だけど、本当にこれが初めてだったんです。だから、そう頻発するようなものではないかと思いますが……」
私は、ひとまずこの場を乗り切る為だけに言葉を紡いだ。原因が、麻耶からプライベートな部位に触れられた事で起こったものであると分かっている以上、突然何の前触れもなく起こる事はない、と確信していた。
では、何故それであそこまで過呼吸を引き起こしたのか。こちらに関しては、私自身が成長し、あの夢の意味を理解したからこそ過剰な反応が現れるようになったのだと思う。
(それから──)
私は心の中で、段階的に推測を整理する。
──ではそもそも、何故あの夢を見るようになったのか。遡れるだけ遡った限りでは、小学三年生の頃にはもう、それは始まっていた。
その原因だけが、分からなかった。
その事については、両親にも言っていない。昔は「怖い夢を見た」と母に訴える事はあったが、いつしか夢を夢として、現実とは全く無関係なものとして捉え、それが実害をもたらす事がないと判断出来るようになると、そのように誰かに話す事もなくなった。
それで良かったのだと思う。夢で自らが遭遇している事を理解してしまったからには、それを誰かに訴えるような事は、それがたとえ身内であっても憚られるようになった。
だからここでも、私はそれ以上の事を口にしなかった。
ただ、今後は気を付けなければ、と思った。
麻耶にとっては遊びのつもりでも、私にとってはいつ”引き金”を引くような事になるのか、分からないのだから。
短編小説「夢魔」を、また数日に分けて投稿します。恐らく今、多くの方は「藍原、あんた、小説書きすぎだよ」と思われている事でしょう。私もそう思います。が、ちゃんと寝ているのでご安心下さい。
最初にお断りを入れますが、一回目をご覧になって分かる通り、本作には若干の性的な描写が含まれています。とはいえ、性器や性行為の様子等について事細かに描写されているという事はありませんし、わざわざR18の方に投稿するまでのものでもないか、と判断した為普通に「なろう」に載せます。ですが、この時点でもう無理、という方は読まなくても大丈夫です。
私はミッドナイトノベルズにも『大和撫子』という連作短編集を公開していますが、ミッナイ(勝手に略すな)の方はやはり「なろう」の作品一覧に載らない為か、やはりあまり読まれないようです。故にあちらに載せるのは、あくまで「官能小説」という売り文句になる作品だけに留め、こちらは読者の皆さんの自己判断に委ねます。




