「挙動不審」③
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埃を被らないようにカバーを掛けていた内蔵型のデスクトップPCを立ち上げながら、最後にこれを触ったのはいつだったか、と老人は考えた。
曲を作らなくなってからも、自宅で行う業務上の作業や趣味のネットサーフィンをする為に、PC自体には触り続けてきた。しかし、バンドの解散後に就いた仕事を定年退職してからは、妻と共に自宅に居る間、趣味でそれに触れる事すらもいつしかしなくなっていた。
退職した頃、丁度この系列の機種を製造している会社が、新しいOSをリリースした。定期的に配信される更新プログラムのインストールでアップデート出来るようなものだったが、退職後は必要最低限の機能さえ使えればいいと思い、面倒臭がってそれはしてこなかった。
もう、十年以上──二十年近く前の事だ。当時最新だった機種もOSも、とっくに古いものとなっているだろう。自分の使っているものに関しては、最早骨董品の域かもしれない。
経年劣化の為か、電源を入れてからの立ち上がりは非常に遅かった。ロゴの画面が表示されたまま、インジケータがくるくると回り続けている。羽根のように重さの感じられない彼女を肩に乗せ、老人は食い入るように身を乗り出して今や遅しと画面を見つめ続ける。
システムチェックの実行の是非を尋ねられ、それからアップデートを行うか否かという問いが現れた。
曲を作った後、それを若い頃のようにインターネット上に公開するという事については特に考えていなかった。作れさえすれば、それで良かった。これから行おうとしているのは、長い間忘れてしまっていた彼女との時間を取り戻す為に必要なプロセスの一部分なのだ。
だから、老人はアップデートを省略した。
既にインストールしている機能が、動きさえすればいい。ただ、一刻も早く制作に取り掛かりたかった。
それが、自分が人生の終わりに、彼女と共に記念碑となり得る作品を作りたいという心境なのではないか、と考え、すぐにそれを打ち消した。
これから何十年か越しの制作を行い、一つの作品を完成させたら、確かに自分は大きな事をやり遂げたという満足感が得られるだろう。しかし、殊更にそれを終わりだなどと思う必要はない。
これからも、まだバイタリティがあるうちに曲を作りたいと思うような事があったのなら、作ればいい。彼女はきっと、その時まで自分の傍に居てくれるだろう。空白の数十年の間に老人が新たに得てきたもの、思うようになった事は無限といっていい程にあり、時間もまた同じくらいあった。
「起動、遅いね」
彼女が言い、老人は「まあ」と頭を掻いた。
「もう、今じゃ殆どジャンクみたいなものだからね」
それにしても遅いな、と焦れったさを感じ始めた時、回転を続けていたインジケータがふっと消えた。やがて、パスワードの入力画面が表示される。
セキュリティ的に良くないと思っていながらも、昔から誕生日と同じ四桁の数字を使い続けてきたので、忘れている事はなかった。キーボードを叩き、その通りに入力していく。
だが、そこで、キーボードを叩いてからそれが入力ボックスに表示されるまでのラグが異様に長い事に気付いた。上手く行かなかったのか、と思い、何度も叩いていると、先程まで叩いた回数分、可視化されていない「・」が表示され、慌ててバックスペースキーを連打する。
処理動作が、異様に重い。焦らないように、と自らを宥め、今度は入力してから十数秒間、表示がされるまで何処も弄らずに待つ。
待ってからエンターキーを押すと、「ようこそ」のメッセージと共に、また長いロードが始まった。
ホーム画面が表示されるまで、五分以上の時間を要した。まずデフォルト画像のままの、最早懐かしさすら覚えるスライドショーが映り、それから一瞬全て白いファイルのアイコンとして表示されたアプリが、ゆっくりとそれぞれのオリジナリティを獲得する。
DTMを行う為のアプリが残っており、老人は自分で「アンインストールしていない」と言ったにも拘らず、ほっと息を吐く。
それをダブルクリックした時、俄かにマウスカーソルが停止した。
遷移しかけていたスライドショーが、途中で画像をぶれさせたまま、不自然に動かなくなる。
老人は彼女と共に、あっと声を上げた。
無駄だと分かっていても一縷の望みを込め、スライドパッドの上でマウスを素早く動かし、カーソルが移動しないかと画面を睨む。次の瞬間、突如ぷつりと画面が暗転した。
数秒後、再び起動画面のロゴが表示され、インジケータが現れてくるくると回転し始めた。処理が停滞し、強制終了されたらしい。
「参ったな」
老人は、眉間を揉みながら呟いた。
「アプリ一つ開こうとしただけで、これだよ」
──何となく、こうなるような予感は覚えていた。仕事を終え、自宅でPCを用いて行う”業務”から解放された時には既に経年劣化の兆候が見られ始めており、どうせもうじき使わなくなるのだからわざわざ買い替えるのも勿体ない、と考え、そのままにしていたのだ。
その事を、すっかり忘れていた。
老人は、首を微かに捻って彼女の方を見る。肩の上の彼女も、微妙そうな表情を湛えてこちらを見ていた。
暫し、無言で顔を見合わせていた二人だったが、やがてどちらからともなくぷっと吹き出してしまった。
「あははははははっ!」
彼女と一緒に、こんなに笑ったのは久しぶりだ、と思う程、横隔膜に痛みを覚えてくるまで、老人は笑い続けた。彼女も笑った拍子に老人の肩から滑り落ち、その事が一層おかしかったように机上で笑い転げた。
彼女は笑いすぎて涙が滲んだのか、指先で眦を拭いながら「駄目」と言った。
「そのパソコン、完全にイッちゃってる」
「これじゃ、とても曲作りは出来そうにないなあ」
老人は、自分でも何がそこまで可笑しいのか、と思う程笑った。
一通り笑いの波が去ると、電源ボタンを長押しし、また延々とロードを始めたPCを強制的にシャットダウンした。
それから、ラックに掛かっている買い物袋の方に視線を移す。
彼女が気付いて、きょとんとした顔になった。
「マスター、どうかしたの?」
「いや、ちょっとね」
老人は椅子から立ち上がり、買い物袋の中に入れっぱなしになっていた財布を取り出して中身を検める。妻の亡き後は必要最低限のものしか買わずにいたので、お金はそれなりにあり、使う予定もなかった。
老人は肯き、彼女の方を見た。
「新しいパソコン、買いに行って来るよ」
彼女はそれを聞くと、再びにっこりと笑う。
「行ってらっしゃい」
老人は「行って来ます」と言い、揚々とした足取りで玄関に向かい始めた。
涼しい風が窓から吹き込み、彼女の髪を揺らす。
(挙動不審・終)
短編小説「挙動不審」はこれで終了です。『リ・バース』の脱稿後に新人賞応募用に書いていた小説を含め、最近暗い話ばかりを書いているような気がしていたので、これは不穏な題名の割に元気の出るような話になりました。
最初に述べた通り、本作の「彼女」は初音ミクではなく、彼女をモデルにした何かですが、多少私の主観もキャラ形成に関わっています。私は、ミクの可愛さはそれが(ソフトは有料ですが)広い意味ではオープンソースである事も関係している、と考えていましたが、先日プロセカの映画をAmazon Primeで視聴し(相も変わらずゲームはしない勢です)、やはり間違いではなかった、と感じました。ミクが『プロフェッショナル 仕事の流儀』にも取り上げられた事もありましたが、クリエイターによって表現方法が違うからこそ「神話」のようなものが生まれ、ネット上では共有が容易な上、作中でも少し触れている通りそれ自体があたかも実在の人物であるかのように扱われる事で、皆「ソフトウェアである」「架空のキャラクターである」といった「理解」を超越して接する事が出来る、という。
私自身はというと、高校を卒業し、日常的にmetalHMと会う事がなくなってから、もう三年以上Studio Oneを弄っていません(肝腎の音声ライブラリがないのでボーカルの部分が作れないのです)。それに、一度やり出すと沼るので小説を書く時間がなくなります。ので、やはり当分は音楽は聴く専になりそうです。その代わり小説はこの調子で真面目に書くので、今後とも宜しくお願いします。改めて、お読み下さりありがとうございました。




