「挙動不審」②
* * *
「今、あっちはどうなっているの?」
老人は、机上の彼女に尋ねる。
「まだ、僕が投稿していた頃の人たち、残っているかな?」
「居る人は居るし、居ない人は居ない……って感じかな。当たり前の事かもしれないけど、考えてみてよ。マスターが曲作りを始めた頃に先輩だった人たち、もうあなたよりもずっとおじいちゃんおばあちゃんなんだよ?」
「ははは……確かに。でも、そういう歳になってもずっと続けられているのって、何かいいな」
「辞めちゃった人も勿論居るよ。歳を取ってっていうよりも、新しく出た他の子を使い出したり、ユニット組んで自分で歌い出したり」
彼女の言葉に、老人はやや肩を窄める。自身もバンドメンバーたちと出会ってからは、電子音楽からは遠ざかってしまった人間だからだ。
「だけど、新しい人は結構出てる。リスナーさんたちから、この先有望株だって言われている人たちも一杯。マスターが私を見つけてくれた頃はもう、世間では大分私たちの事が受け入れられていたから」
「確かに皆、僕がそうだって言った時、全然ウェルカムって感じだったな。むしろそれで、推されたっていうか」
「……ねえ、マスター」
そこで彼女の声が、やや寂しげな色を帯びた。
「何で、辞めちゃったの?」
「………」
老人には、咄嗟に答える事が出来なかった。
理由らしいものなら、挙げようと思えば幾つも挙げられる。電子音楽からバンド演奏に切り替わっていったのは仲間たちと出会ったからだし、音楽自体から離れたのは生活を見据えたからだ。しかし、改めて考えると、それらは皆、もっともらしい理由に過ぎなかった。
苦いけれど、楽しい思い出だった。あの頃は、その楽しさが感じられなくなってしまっていたのだろうか?
「……飽きたって訳でも、なかったんだよな」
老人は、考えながら口を開いた。
「バンドが解散したのは、皆で話し合って決めた事だ。けど、息子たちが独立した後にでも、僕はまた君に歌って貰って音楽を続けるという選択肢が、選べなかった訳じゃなかった」
「ええ」
「したい事を仕事にまで持って行くなら、楽しい事ばかりじゃなくなる。分かってはいたけれど、いざそれを経験して、却って分からなくなってしまったのかもしれないな。最後が誰も望まないような形だった時に、楽しかった事までが──汚されてしまったような気がしたのかもしれない」
「好きじゃ、なくなっちゃったの?」
「いや、多分、好きな気持ちは変わらなかったんだと思うよ。だからこそ、これ以上壊したくないって思ったのかもしれない」
老人は言う。
「僕はそもそも、音楽自体をやりたかったんだ。それが君の歌でも、バンドでも構わなかった。たまたま皆と会ったから、バンドの方に移って行った。だけど、その時には自分でも気付かないくらい、君をパートナーとして見るようになってしまっていたんだね」
「マスター……」
「だから、バンドが駄目になったから──って言ったら語弊があるけど──君の方に戻った、っていうのは、何だか君に対してすまない事であるような気になっていたのかもしれない」
老人は「要するに」と締め括った。
「気まずかったのかもしれないな。君と顔を合わせる事が」
「……もう」
彼女は、そこでほっとしたように息を吐き出した。
「顔を合わせるって、私、ソフトなのに」
「でもあるじゃないか、顔」
老人は右手の人差し指を伸ばし、彼女の頰に触れる。……触れたつもりだったものの、その指先は彼女の向こう側へとすり抜けた。
爪の先で、微かに日光が反射する。ちりちりと、微かに静電気が走るような感覚が生じた。
老人は、やや寂しそうに微笑んだ。
「そうなんだよね。やっぱり、分かってはいる事なんだが」
「だけど、今マスターに見えている私がマスターの頭の中の私だとしたって、それが現実じゃないとは言い切れないんじゃない?」
彼女は言うと、デジタル時計の上にちょこんと腰を下ろした。
「私ね、多分もう沢山の人の中で、あなたがそう思っているくらい、本物の女の子だって思われていると思う。あなただけが、特別な訳じゃない。だけど──いいえ、だからこそ、あなたが今聞いている私のこの声も、多分本物だって思ってもいいんじゃないかな?」
「それも、僕が君に言わせている事かもしれない」
「だけどそうあなたに思わせたのは、あなた自身?」
「……分からない」
老人は首を振った。だが、心の中では、そうして自分が「分からない」と言えた事に安堵を感じてもいた。
彼女も、老人のその返答にほっとしたように微笑みを湛え、時計の上に座ったまま足をゆらゆらと動かす。二人が喋るのをやめると、それから暫らくは穏やかな時間が流れた。
デジタル時計とは別に壁に掛けられた時計が、微かに時針を動かす音だけが、それもまた空間の静寂を構成する一部であるかのように鳴っていた。
老人は背凭れに深々と背中を預け、膝の上で節くれ立った両手の指を組んだまま目を閉じる。
普段なら、このまま微睡みの中に引き戻され、気付いた時には夕暮れになっているという事が多い。今や老人は、彼女と共有する静謐な時間そのものすらも、しみじみと味わう事が出来るようになっていた。
そして再び目を覚ました時、彼女は静かに立ち去っている。老人はそんな彼女に対して、また来てね、と心の中で語り掛ける。
だが、今日は不思議と、彼女から呼び掛けられた事で緩やかに覚醒した意識が、再びぼんやりしてくる事はなかった。
薄目を開け、彼女が手持ち無沙汰という風に髪を揺らしたり、カーテン越しの光線に手を伸ばしたりしている姿を見る。その時、老人の脳裏に一つ、思いついた事があった。
それを口に出すか否か、老人は少しの間迷った。が、その時彼女の姿が薄らぎ始めている事に気付いた事が背中を押した。
「……なあ」
ゆっくりと目を開き、椅子の上で背筋を伸ばす。途端に腰椎に圧迫感を覚え、老人は微かに顔を顰めながら、慌てて背中を前傾させた。自分自身では元気なつもりでいても、やはりあちこちに衰えが来ている事は否めない。
彼女は驚いたように口元を押さえ、デジタル時計の上からぴょんと飛び降りて老人の目の前まで歩を進めて来た。老人はまだ眉間に皺を寄せながらも、掌を突き出すようにして「大丈夫だ」と言った。
「無理はしないでね」
「ありがとう、でも本当に大丈夫だよ」
老人は言ってから、本来口に出そうとしていた事を切り出す。
「曲、久しぶりに作ってみようか?」
「えっ?」
彼女は一瞬、ぱっと顔を輝かせ、身を乗り出すようにした。が、すぐに不安そうに眉の角度を下げ、
「マスター、まだ曲、作れるの?」
と尋ねてきた。
「随分長い間、ご無沙汰だったんでしょう?」
「心配ない……と思うよ、多分。だけど、少なくともツールは一式全部アンインストールしていない。もしかしたら更新しなきゃいけないライセンスはあるかもしれないけどね。
それに、車の運転とかと同じだ。長い事やってきた事の感覚って、大分間が空いたところでそうそう忘れるものじゃないよ」
君が、と、老人は言った。
「君が僕に思い出させてくれたんだよ、昔の事を」
「マスター……」
彼女は、先程呟いたのと同じ言葉を零す。しかしやがて、こくりと肯き、心から嬉しそうな笑顔を湛えた。
「ありがとう、マスター」




