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未分類  作者: 藍原センシ
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「語りたい欲」

 私の小説の特徴として、友人から言われる事であり自覚もあるのだが、登場人物がやたら長い台詞を言うという事がある。台詞の途中で改行されていたりする事もあるので、読みにくいと感じる方は感じるかもしれない。

 だが冷静に考えてみると、探偵小説の謎解きの場面などに於いてはこういった「長い台詞」はごく普通に登場する。無論、独り言で数ページにも渡る台詞があったら不自然なのでこういう場合は必ず聴き手が居り、時折疑問を差し挟んだり相槌を打ったりする。必然的に、長台詞は途中で中断される。

 度々書いている事だが、私の創作に於けるインプットでは、アニメの視聴が読書と同程度の比重を占めている。アニメには当然ながら「地の文」はないので──ナレーションがある作品もある事にはあるが、一回の放送で場面が変わるごとに入っていたら煩わしい事この上ないだろう──、過去を語る場面などは台詞を使うしかない。語る人物の回想シーンが同時に流れもするが、これは逆に小説では採り得ない方法である。

 また、スポーツやアクションでは時々「今何が起こったのか」「人物が何をしたのか」が分からないと視聴者の頭の中で展開が上手く繋がらない事があるが、よく使われる手は傍で見ていた第三者が「何が起きた?」と心の中で直接的に口にした後、そうか、まさか、と挟んで、一瞬前の動きが映像と共に解説されるというもので、私も時折文章中で使う。小説では地の文が使えるのだからそのまま書けばいいのだが、こういったところに私が自作品についてアニメからの影響が大きいと感じる所以(ゆえん)があるのだろう。


          *   *   *


 ところで、若い男子を主人公とした一人称の小説を読むと、妙に語り手であるところの人物に淡々とした印象を受ける。大江健三郎『叫び声』や『同時代ゲーム』などもそうだし(『芽むしり仔撃ち』も一人称「僕」の少年主人公が語り手だが、これは例外的に熱いので措く)、村上龍氏『限りなく透明に近いブルー』もそうだし、最近のもので印象深いのは伊坂幸太郎氏の『砂漠』、河野裕氏「サクラダリセット」シリーズや「階段島」シリーズ、住野よる氏の『君の膵臓をたべたい』など。人物が冷淡な訳ではなく、実際に冷めていたり達観しているところもあるとはいえ時折熱くなる一面を覗かせる事もある。が、不思議と淡々としている。

 一体この雰囲気は何処から来るのだろう、と考えてみると、皆何かしらの説明文が多いのだ。それは微に入り細を穿つ情景描写であったり、心情の事細かな変動(=情動)であったりする。そして、それらの説明が誰に向けられているかといえば、読者に対してなのだ。

 必然的に、それは台詞としてではなく語られる。台詞として、明らかに読者に向けた説明があったらわざとらしい。三島由紀夫の『文章読本』の中で、戯曲の台詞に関する事で次のような解説がなされているが、これは小説やアニメにも通ずるものがあるだろう。


 ですから一例が「おい、平社員たる君が社長の俺に向かってなにを言うのだ」という会話が、よく未熟な戯曲に見出されますが、そういう風にして説明された会話は、いい戯曲の文章とは言えません。なぜならば、われわれは普通、相手が社長であり、こっちが平社員であるということは、実生活の中で知っているので、なにも改めて社長である私に対してとかことごとしく言うのは、それこそいわゆるお芝居じみた台詞になって、実生活から離れてしまいます。(中公文庫)


 こうして考えてみると、地の文を持つ「小説」は何者かによる読者に対しての「語り」であると捉える事が出来る。それを「僕」「私」などの一人称に語らせると、その物語が全体を通して作中人物による”記録”なのだという印象がつく。台詞と同じ一人称が語っている事を生々しく感じるのに、淀みがないのだ。他方、太宰治や庄司薫の一人称小説を読むと”記録”という印象はなく、目の前で誰かが肉声で語っているような雰囲気が感じられる。こちらには淀みがある為だが、これは悪く感じるという意味では決してない。

 私がこの事に気付いたのは、伊藤計劃氏の作品を読んだ時だった。彼の作品はその多くが、作中で何らかの媒体に記録されているという(てい)で書かれている事が明言されているが、それが私の「淡々としている」と感じた一人称小説たちの空気感に通ずるものがあった。

 特定の誰かに向けたものである必要はない。記録とはそれを行った時点で、将来的に()()()()自分以外の誰か──つまり未来の自分でもいい──が読む事が想定されている。それは、実際にはそれを体験していない者、或いはその記憶を忘却してしまった者に対してなるべく正確に自らの体験を共有する事なので、必然的に描写が克明なものになる。これこそが、「語りたい」という欲求の根源である。

 都市伝説まとめなどのサイトに行くと、ユーザーがスレッドを立てて自身の恐怖体験を語ったりしている事があるが、私は一時期それに(いた)く夢中になって読み耽っていた事があった。否、今でも何かの弾みにそういうページを開くと止まらなくなってしまう。思うにあの手の場には不特定多数の「語りたい」気持ちが横溢しており、それが読者を惹き付けるのだろう。

 またしても三島由紀夫の例を出すが、彼が澁澤龍彦との対談の中で「佐藤春夫は、文学の真骨頂は怪談で、人を本当に恐がらせられたら、技術的にも文学として最高だと言うんだ」と発言している(東雅夫氏曰く、佐藤春夫全集を隈なく調べても春夫本人のこのような発言は見られなかったらしいが)。これは言い得て妙であり、「怪談を語って恐がらせる」というのは、本人の恐怖体験が受け手側に共有されたという事である。これは先程までの事を踏まえると、「語り」がその目的を達成した、と言う事が出来る。という事は、無数の怖い話が「怖い話」として存在する、匿名で書き込み自由のサイトは、上質な文学=小説や物語の原石がそこらに沢山転がっているという事を意味している。どうりで夢中になる訳だ。

 当たり前に使用されすぎており、字面通りの意味を最早意識するまでもなくなっている「物語」という言葉には、創作物の本質たる願望──敢えて願望という語句を使おうと思う──が内包されている。淡々とした主人公の一人称小説も私の長台詞も根は同じところにあるのだろう。恐らく誰もが持つ「語りたい」欲は、架空の作中人物であっても言葉を使う存在である以上例外なく有している。

 そしてその究極的な帰結点が、作中で「語り」の階層構造を持つ『アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)』である。因みに私は読んだ事がない。

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