「新感覚」①
「世界観のある曲を作ってくれ」
「よし」
というやり取りが茂樹との間で交わされたのが一週間前だ。英吾はゲーミングチェアの背凭れを破損寸前まで後方に倒し、鼻と口の間の辺りで留めていた空気を唸り声と共に吐き出す。
エアコンの備え付けられていない部屋だ。西側の窓のせいで、夏は窓を開けねば気温は四十度を超える程暑く、冬は寒い。冬の場合室内にある石油ストーブを点ければ寒さは何とか出来るが、すると今度は酸欠気味になって頭が痛くなるし、眠くもなってくる。
そろそろ切らねば、と思いながら面倒臭がっている前髪を伝って、額の汗が目に入りそうになる。手の甲でそれを拭い、またその手の甲をズボンのデニム地で拭う。反り返っていた体を戻し、充電器に繋ぎっぱなしのハンディファンの風を多少ひんやりした額に受ける。
ピュレ入りのミックスジュースを注いだガラスコップも、マウスパッドの隣で汗をかいている。
色とりどりに重なったトラックのミュート設定を弄る。流す。カーソルを先頭に合わせ、今し方流したベースをミュートにする。二つ目のベースのミュートを解除し、主メロと合わせて流す。
聴き終え、英吾は頭を掻いた。二つのトラックを範囲選択し、デリートする。昼過ぎから一時間程かけて作った箇所は呆気なく削除されたが、別に惜しいとは思わなかった。元から、過去に作ったファイルからコピー&ペーストしてきて適当に弄っただけのものだ。
生温くなったミックスジュースを口に運び、マンゴーの匂いが予想以上にきつくなっている事に驚き、飲むのを断念する。コップの底から結露を拭き取り、階下の台所に捨てに行こうと椅子から立つ。
立った途端に立ち眩みを感じ、「ヤベっ」とつい口に出して呟いた。狭まった視界が元の広さを取り戻すのを待ってから、出入口の戸を開けた。
廊下に出た時、まだ冷房の入った部屋には行き着いていないにも拘わらず冷風を感じた。Tシャツの襟首を寛げ、ぱたぱたと風を入れる。
鼻腔の奥に、温いマンゴーの匂いが残って粘つくようだった。
英吾は階段を降りると、すぐ右手側にある扉を開けて台所に入る。勿体ないと思いながらも、流しにジュースの飲み残しを捨てた。下を向いた鼻腔で何かさらりとしたものが流れる感覚があり、「あっ」と思った時にはガラスコップの側面に大粒の赤色が滴っていた。
──茹だってしまったか。
先程立ち眩みを覚えた時にももしかしたらと思ったが、無理もない。部屋に直射日光の入り始めた頃から、殆どジュースに口をつける事もなくデスクトップPCの画面と睨めっこをしていたのだ。作業に没頭してしまうとその辺りの注意が疎かになるが、英吾は決して熱中していた訳ではなかった。むしろ気は漫ろで、ああでもない、こうでもないと呻吟しているうちに一時間も経ってしまっていた。
血を飲み込まないように下を向き、息を止めながらティッシュペーパーで鼻を押さえる。水で流しても輪郭が落ちず、ひとまず後回しにしたコップに残った血を見ているうちに、英吾は妙に憂鬱な気分になった。
多分、そろそろ茂樹たちから「出来た?」という確認の──実質催促の──メールが送られてくるだろう。
メロディラインだけでも、仕上がっているという報告はしたいと思った。しかし英吾は自分の中で、なかなかそれに「確定」という結論を出せずにいた。もう少し良くなるのではないか──そう思い、保留にしているうちに、他の楽器から戻れなくなっていく。いや、元々土台となるメロディラインが仕上がっていないうちに他の箇所に着手するからガタガタするのかもしれない。
そもそも──。
俺たちにとっての世界観とは何だ、と思った。茂樹はどのような意図であのような事を言ったのだろう。彼は俺たちの音楽に、どのようなテーマがあると考えているのか? 或いはそれを誰もが発見出来なかったから、「世界観のある曲」という言い方をしたのだろうか?
鼻腔が再びつんとする。気を付けていたつもりでも血を飲んでしまったのか、それとも脱水気味になっているのか、少々気持ちが悪い。
高校時代、他の三人を誘った時、これと同じような憂鬱──得も言われぬ厭世観が英吾に最初の曲を書かせた。
だが今、それが再び味方をしてくれるような気はしなかった。
* * *
元々、音楽は聴く方が好きだった。学校に行かなくなってしまった高校二年次の半ば程、英吾を現実に繋ぎ留めてくれていたのは和製ロックだった。英吾は好きな曲を発見するとよく聴き込んで技法の調査や歌詞の解釈を行い、それをネット上に載せるという事を行っており、聴く上で第一に重視するものは今でもやはり歌詞で、当時か変わっていない。
だから本当は自分自身が音楽を創る側に回るのだとしたら、作詞さえ出来ればそれで良かったのだが、いずれ自分でもDTM(DeskTop Music)を行いたいと願望を口にしていたボーカロイドファンの同級生に連絡を取ってみようとした時、自室のベッドの上で盛大に嘔吐した。
躁鬱に伴い現れる様々な症状はあれど、嘔吐は初めてだった。メンタルクリニックで処方された複数の薬を飲み、気分の波は依然消えないながらそういった症状はその頃安定していたが、英吾は今までと全く違う自身の体の反応に驚き、その後酷く戸惑った。
結局、何が自分を嘔吐させたのかは分からずじまいだった。ただその時は、ごく自然に「やられた」という気持ちを起こしていた。
その後、何でもかんでも病気のせいだと言い張る自分に自己嫌悪を覚え、冷静に口を漱ぎ、手ずからシーツを洗って家族には黙ったまま終わらせた。
厭世観が俄かに強まった時、不意に作曲をしてみようという気が起こった。
何の脈絡もないようだが、その時頭の中で、連日聴いていた和製ロックのFマイナーコードが流れ続けていた事が手伝ったのだと思っている。
楽譜は読めないし、ピアノも弾けなかったので、ネットの記事や解説動画を見ながら見様見真似でDTMを行った。ソフトはボイスサンプルも含め、無料配布されているメジャー製品の体験版をダウンロードして使った。
一週間程かけて、『under dog』という題名で三分強程の曲を制作した。歌詞は文字数を数えながら過去に試しに書いていたものを改め、何となくそれらしく組み上げたが、自分ではまあ悪くないと思えた。
創ったはいいが、それをどうしていいか分からなかった。ので、特に考える事もなく軽音楽部に所属していると聞いた茂樹にMP3のオーディオファイルで送り、聴かせてみる事にしたら、中学時代も同じクラスだった彼が何の事前連絡もなく自宅に押し掛けて来た。
あれよあれよという間に連れ出され、レンタルスタジオに引っ張られた。
そこでは、現在のホロ・スケープスのメンバーとなっている残りの二人──亮河と学が待っており、茂樹と共に英吾を中へと誘った。
「よし。英吾、お前歌ってみろ」
茂樹は、さらりと雑談のような軽さでそう口にした。
英吾は面食らい、「冗談だろ?」と口走ったが、彼らは口調は軽いながらも一様に真面目な顔つきで自分を見ていた。
「冗談でスタジオまで借りると思うか?」
茂樹は言った。
「凄く良かったよ、あの曲。俺たちも今まではただの部活だったけどさ、あれ聴いた時、もしかしたら形に出来るんじゃないかって思ったんだ。で、亮河たちと話し合った結果、やっぱりこれは英吾が歌うのがいいって事になった」
「けどさ、俺カラオケにすら行った事ないし」
「俺たちだって、軽音部入る前はそうだったよ。大丈夫大丈夫、英吾、中学の合唱の時だっていい声してたじゃん」
半ば無理矢理ではあったが、英吾は従う事にした。スマートフォンに保存していた歌詞のテキストファイルを開き、よくもこのようなものを、と羞恥心が込み上げないでもなかったが、茂樹たちはこの分では自分が歌うまで帰してはくれないだろう、という事は分かった。
ままよ、と英吾はヘッドフォンをした。スタンドに固定されたままのマイクを傾けて口を近づけ、指先でグリルをとんとんと叩くと、茂樹たちの間から「おお」と微かなどよめきが上がった。「こなれた感じがする」
「茶化すなよ」
「俺たちで弾きやすいようにちょっと弄ったけど、歌のメロディは変えてねえよ。作った時の通りに歌ってくれれば大丈夫だ」
茂樹と亮河がそれぞれエレキギターとベースを肩に掛け、学がドラムスティックを取った。
「一発録りだからな。昔からのロックはこうでなきゃ」
「……どうぞ、いつでも」
英吾が言うと、学が肯き、スティックでカウントを取り始めた。
茂樹がイントロを爪弾き始め、英吾は息を吸った。
ノンシリーズ短編を今日から数日間連載します。DTMは私も少し齧った事がありますが、本作は私小説などではなく完全にフィクションです。森鷗外の「かのように」という短編小説をよりインディビジュアルな範囲に置き換えたような話ですが、まだ一回目ではそれが分かる部分には入っていません。引き続きお楽しみ下さい。
勿論『夢遥か』の方も更新しています。未読の方は是非チェックを!




