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未分類  作者: 藍原センシ
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「『選詩集』あとがき」

(初出 『選詩集』2024年12月刊行)


 よもや、初の新人賞応募から選考結果公表を待たずして、二冊目となる書籍の編集を担当する事になるとは思わなかった。

 一冊目というのは私がX創作界隈に於ける同年代の友人たちと主催し、同人を募って刊行した『うい! ─10代だけの創作集─』の事なのだが、それに続く本書『選詩集』は私こと藍原センシの個人制作である。センシという名前は、Xで使用していたアカウント名Sinceriteを人名風にアレンジしたものであり、決して詩を選ぶという意味ではなかったが、本書籍の題名はすぐに自分の名前から連想し、アンソロジーとしてのテーマに吻合した。

 ネット上での処女作「黒揚羽」を筆頭に本書に収録した作品たちの大半は、既にXで公開した事のあるものである。とはいえ、必要に応じて添削・改題改稿を行ったので、読み味の大きく変化した作品もある。だが、私が全体を通して「詩を選ぶ」という言葉を使用した意図は、既存の自作品から恣意的に優位のものを選出し、何となくまとめてみた、という事を意味するものではない。

 詩人とは、詩の作成者ではなく収穫者である、というのが、最近私が詩作について思っている事だ。作り手の内生命から生じた詩情と、彼または彼女を取り巻く広大な環境の詩情、それらが出会い、詩が生まれる。「私はいつもどんな時も/こんなにあなたを想っているのに/どうしてあなたには届かないの」というように、自らの感情を「正直に、何の飾り気もなく」書き出してもそれが文芸としての詩とは言い難いのは、自己完結に終始し詩情との遭遇がないからだ。

 自らの抱えきれないものを詩に書き起こす事で、心が救われる人が居る。あたかも詩が寄り添ってくれたように感じるだろうが、ならばそれが何物とも混ざり合う事なく自分の内側から現れたものであるはずがない。それが救済になり得るのでは、それは詩という形を経ずとも自分一人の中で整理のつけられるものだったという事になってしまうだろう。

 鏡を使わなければ自分の姿を見る事が出来ないように、一時の感情に留まらない詩情もまた、自分以外の何かに映さねば詩に昇華はされない。一方、我々を取り巻く事物全て、詩の題材にならないものはない。誰もが、広大な詩のマトリックスに取り囲まれている。

 ──と、長々書いているとロマン主義的表現と捉えられるので()そう。

 ともかく私の中で、詩が自分だけの能力で生み出されているのではない、むしろ詩作に於いて自分が務めている役割などごく些細なものに過ぎないという考えが生まれたのは事実だ。謙遜ではない。クリエイターの方々ならば、いざ作品の制作に臨んでいる時、自分でも思いも寄らなかった逸品が生まれ、その後同じようなものを作ろうとしても二度と出来なかった、という経験はあるだろう。

 そして、あらゆる物事が詩になるからといって、ただ貪欲に素材だけを集め続けても仕方がない。最も自分が発信したい事に近いモノはどれか、最も自分を解放してくれるモノはどれか、そう考えているうちに不純物は(よな)げられ、その人の作品であるといえるオリジナリティが生じる。

 この取捨選択こそが、私が「詩を選ぶ」という言葉を本書に用いた理由である。

 という訳で、本当ならば「Ⅰ 詩」のパートだけで本書を成立させても良かった……というよりさせた方が良かったのだが──ここまで散々詩の話をしてきて今更と思われるかもしれないが──私が元々書いていたものは小説で、今でも力を入れているのはそちらの方なのである。藍原センシという名前も、本来は小説を発表する際の名義として使い分けていた。せっかく私の世界観を全面に押し出した書籍にするからには、こちらの面もお知りおき頂きたいので、「Ⅱ 小説」のパートは付け加えておく事にした。こちらはあまり深く考えずにお楽しみ頂ければ幸いである。

 さて、中身の事について軽く触れておこう。

 私が()()()()()四十五編の詩には、序文でも述べたようにいずれも明確なストーリー性を含んではいない。見方によっては「これは物語ではないのか?」と思われそうな作品もあるが、私の中では詩に書かれているような事が作中世界で起こり、記録者がそれを目の当たりにしている、というような意図は全くない。かといって全てが何かしらの暗示や寓意が形を変えたものなのか、と問われれば、必ずしもそう言い切れない部分もある。

 これまで散々「詩を書く目的が○○の人の場合は」などと綴ってきたが、では私自身はどのようなスタンスで書いているのか?

 本当のところを言うと、私の考え方は別に誰かに何かを訴え掛ける目的はなくていいではないか、という程度の気楽なものだ。まだ詩の物語に囚われていた頃は、難解さ故に自分の意図と全く違う解釈をされる事もあり、少なからずもやもやしたものを抱えたものだが、今では「書き方は自分次第、読み方は他人次第」という程度に考えている。詩が「選び出す」ものであり、「拾って来る」ものだという事は、要するに素材は同じ、見方が異なるという事だ。界隈に「#」を用い、日々詩のお題やキーワードを提供する方々が存在した事もいい例だろう。それは主観で見て、切り取った後でも変わらない。

 恐らくそうした創作スタイルの結果、私には寓話のような外面を纏っていながら寓意はない作品が出来上がるのだろう。

 特に意味を持たない私の詩で癒しのドラマを感じ取る人も居るだろうし、私が否定した即興のポエム手帳のような記録で救われる人もまた居るかもしれない。寺山修司の「さみしいときの口の運動」という文章(角川文庫『ポケットに名言を』収録)の中に、次のような一節がある。


 いろはにほへと、を(はさみ)で切りきざんで

 順序を勝手にならべかえてよむのです

 いしかねぬゐに くちみほそ

 のせもたむるは をゑらよら

 あたしたちは、これを何べんも口ずさみました

 それは……詩になりました

 どんな名台詞(せりふ)よりもしみじみと心に沁みました


 私は価値観や哲学が凝り固まっていて、こだわりも強い方でありながら、これこれと説明されるとそれは確かにと肯いてしまいがちである。先人の詩論を読んだり界隈の方々と詩について話したりして、共感もするしそれこそ真理ではないかとすら思う事もしばしばある。

 けれど、私は寺山修司のこの文章の中に、詩とは畢竟そういうものではないか、という、主義や派閥を超越した普遍的な姿を見るような気がするのである。

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