「『選詩集』序文」
(初出 『選詩集』2024年12月刊行)
長編詩「黒揚羽」でX(旧Twitter)の創作界隈に参入したのが二〇二一年の夏だったので、間に長い活動休止期間を挟んだとはいえ私の「詩人」としてのキャリアは早くも三年半になろうとしている。界隈に認知され始めてからは一日一編、ほぼ毎日連続しての投稿を続けてきた私だが、自ら半年間に渡る活動休止期間の前後で区別している第一期、第二期で作風が大きく異なる事は、当初から作品を読み合うなど親しく交流して頂いた多くの方々がご存知の通りである。
第一期は、自ら和のテイストを意識し、雅語をふんだんに取り入れた七五調の作品を主にしていた。語彙や特有の言い回しに、ポエマーの方々からは好意的な見方を示されたが、途中から何を血迷ったのか、「和」を通り越して文語を模した訳付きの詩を量産するようになった。そのような語彙で”ぶん殴る”ような作品を、私は今や愛せなくなった。
第二期は固定化されたリズムと古風な語彙を排し、様々な事に挑戦しながらより観念的な詩を創る事が多くなった。こちらは模索の日々であり、成功した作品、失敗した作品がはっきりとしている。恐らく、これらはこの先時間が経っても、第一期のものに比べて私の中での印象が移り変わる事はないだろうと思う。ただ、追究を続けるうちに私自身が発見した事は、詩の枢軸を「物語の筋」に定めてはいけないという気付きだった。
例えば、恋愛詩がある。日常詩や奇譚詩がある。だが、それを「誰々が居て何々をした」「私はこう思った」などと書き起こすだけでは日記と変わらず、創作であれば詩である必要がない。詩を「適宜改行を施し短略化した小説」のように扱うのであれば、それは小説として描かれるべき文芸に対するストーリーテリングの実力不足を暴露しているに過ぎない。
では詩の独自性は何処にあるのか、という事を突き詰めて考えると、それは詩情を通じ、個人の感性で捉えた主観的な世界を他者に共有する事である。それは、写真のような言葉では足りない。物語らしきものを詩から読み取っても、そこにある種の形而上の事情を見出し、読み手に解釈が可能なものでなければならない。その書き手にとっては初夏の蝶が再生や柵からの解放を意味するものかもしれないし、冬の暗さは日常の暗さに通ずるものかもしれない。恋愛詩も、直截的な言葉を読むだけで完結してしまうようなものであれば、それは感想文である。
詩はそもそも必要か、というところまで行けば長大な議論になるだろうが、必要であるならばそれは何故か? 感情の整理であり忘備録で完結してしまうなら、共有の必要はなく、文芸としての価値は甚だ低いものになるだろう。果てには、感情的な裏づけがなければ詩を書いてはならないという占有感を生み出し、「詩を書く為には病的な程繊細に振舞わねば」という誤解を生じる。
詩が必要である目的は芸術的なもので、芸術的な目的で詩を創ろうとすれば感情に先立って独り歩きを始めてしまう。「創る」とは、そのような矛盾を孕んでいる。だから究極的には、言語以前に詩は元々そこにあり、それをどれだけ拾う事が出来るかというところに詩人の力量は試されるのではないか、と私は結論付けた。
私は、自ら詩人で在りたいと思っている。それ以前に創作者で在りたいと思っているが、それは多感になりたいという事でも失恋を経験したいという事でも、無論理解され難い障がいを抱えたいという事でもない。詩は外見程あっさりとしたものではなく、かといって特別なものでもない、身近であり普遍的なもので、読み手の態度次第で文字列の奥にある他にはないエッセンスを返してくれる。
故に、本書の為に精選した四十五編の詩は私が「創った」というより、「拾ってきた」と言った方が正確だろう。そして、そのように「拾ってくる」者たちの事を詩人と呼ぶ──否、呼んでいいのだと思う。




